風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「オルセー美術館展」に驚愕(1)

東京出張のついでに国立新美術館の「オルセー美術館展2010」に行ってきた。
これが噂に違わぬ実に素晴らしい展覧会であった。
オルセー美術館の改装工事に伴って、門外不出の名画をアメリカ、オーストラリア
日本を巡回するという企画で、やってきた名画の多くは今回見逃したらまず二度と
日本には来ないだろうと言われている。
本当に我々にとって滅多にないチャンスである。


最初の部屋でまずガツンとショックを受けた。
画集などで見慣れた名画、モネの「日傘の女性」
草原がピンク色で、陽光が透ける日傘の内側が緑色なのだ。
普通の感覚と真逆に描かれているのに何の違和感もなく、初夏の陽気、草いきれ
そよぐ風が生き生きと伝わってくる。
画集や写真ではわからないモネの筆遣いが生み出すマチエールによって、その画力は
3倍にも4倍にも増幅されている。
女性には顔は描かれていないけれど、初夏の幸せが伝わってくる絵。
光に満ちた実に素晴らしい絵。


マチエールと言えば同じ部屋に展示されていたシスレーの「モレの橋」にも感動
した。この絵には河に映る家が描いてあるのだけれど、その家の下部、右下の壁が
川に映り込んでいるのだけれど、その部分でシスレーは断固として白い絵の具を
盛っている。普通に考えると実物の壁の白さと写り込んだ部分の白さには光の強
さ、色の力に違いがあるはずだ。しかしシスレーは断固としてパレットナイフで
この部分に白を盛る。
誰がなんと言おうとこのマチエールなのだ、という決然たる意志。


さらに、モネの「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」。
この絵は見ていて胸がどきどきしてきた。
夕暮れのテムズ川の光景なのだが、霧に霞んだ太陽と画面に溢れるピンクの光、
その中に鬱然と浮かび上がるロンドン塔。
なんという豊饒な色合いと瞬間を捉える視線の鋭さ。


二番目の部屋(第二章)はスーラやシニャックピサロの点描主義の絵が展示してある。
これらは画集などでおなじみのいかにも印象派な絵。
これらの中で特に興味深かったのはスーラの有名な「グランド・ジャット島の
日曜日の午後」の習作のいくつかで、スーラが実に丁寧に点描技法をテスト
して煮詰めていったことがよくわかり興味深かった。


名画の数々にノックアウトされた僕の目を次に捉えたのは、セザンヌだった(第三章)。
以前、日記帳の記事に書いたように、僕にはセザンヌがよくわからない。
いったい何がいいのか、どこが素晴らしいのか、よくわからないのだ。
今回、なんと8点のセザンヌの名画が展示されている。
それを順に眺めてゆく。


超有名で名画の鑑のように言われている「サント=ヴィクトワール山」。
これは(同名の別の絵をブリジストン美術館で見たときも思ったが)僕には素人の
日曜画家の風景画にしか見えない。
よく見ると塗り残しがあったり、丁寧さがどうも感じられない適当な絵に見える。
しかし、何故か伝わってくるものが凄い。
描いているものは何の変哲もない岩山であり、日常のありきたりの景色なのに。
つまり「画力」が凄いのである。
いったいこれは何故なのか?


そう考えこみつつ次の「シャトー=ノワールの森の岩」を見て、僕はあっと思った。
これはキュビズムの絵じゃないか、と気づいたのだ。
そしてセザンヌの凄さはベートーヴェンの凄さだ、と思い至ったとき、僕はやっと
セザンヌが少しだけわかった気がした。
つまり、セザンヌの凄さは、形と色の「構成」の凄さなのだ。
セザンヌは、美しいマチエールや華麗な色遣いの画家ではない(音楽で言えば美しい
メロディや、楽器の音色を際だたせる作曲家ではない)。
彼の凄さとは、色と形で画面を構成して途方もない画力を生み出す能力なのだ。
画力とは見る人に何かを伝える力である。音楽でも、美しいメロディや楽器の音色だけ
では伝えられるものには限界があるように、絵だってそうなのだ。
同じく展示されている有名な「セザンヌ夫人」を見てみよう。
例によって塗り残しはあるし、瞳の位置なんか微妙にずれていて(まるでヘタウマ
漫画!)るし、我々素人が考える所の「上手な絵」ではない(と僕は思う)。
しかし伝わってくる空気感、リアル感、「その人感」には凄いものがある。
この、セザンヌキュビズムなのだ、という僕の確信は、同じ部屋に展示されていた
ピカソセザンヌ静物のオマージュとして描いた「大きな静物」を見たとき、確信
に変わった。
まさにそのピカソが言ったとおり、セザンヌはそれ以降の画家にとって「父」なのだ。


オルセー美術館展2010 作品紹介のページ
  ↓(ここで紹介した作品のいくつかを見ることが出来ます)
http://orsay.exhn.jp/work1.html


(続く)