風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ノルウェイの森

村上春樹の本のうち、僕が手放したものは少ないのだが、その中の一つがベストセラー
の「ノルウェイの森」である。一度読んでピンと来なかったのでさっさと処分してしま
ったのだ。それを読み直してみようと思ったのはごく最近である。
1Q84」を読んだことも無関係ではない。
改めて読み返してみて、村上春樹の作品の全ての原点となる要素が含まれた本、と
思った。この作品は村上がヨーロッパに滞在していた期間に一気に書かれたもの
である。


【引用始まり】 ---
ノルウェイの森』がベストセラーになって、いろんな人によく同じ質問を
受けた。
「あなたはどうしてあの本があんなに売れたと思いますか?」と。
 もちろん僕にはそんなことはわからない。僕の仕事はただひとつ、小説を書き
あげることである。どうして自分があんな小説を書いてしまったのかということ
さえ、僕にはよくわからない。とにかくそのときには、それしか書けなかった。
よくも悪くも、僕としてはそういう書き方しかできなかったのだ。
【引用終わり】 ---
村上春樹「遠い太鼓」より:←このエッセイ集は非常に面白くお勧めです)


村上作品の原点はいくつかある。
例えばエルサレム賞授賞スピーチ「壁と卵」で語られた「システム」と言う存在。
ノルウェイの森」では「永沢さん」という友人(先輩)が「システム」を体現して
いる。役回りとしては「ねじまき鳥クロニクル」の「綿谷ノボル」と同じだ。
「永沢さん」も「綿谷ノボル」も「システム」を最大限に利用し、「システム」から
力を引き出し、それを行使する存在だ。そして一方で、周囲の人々の心に取り返しの
つかない邪悪なダメージを与える。
綿谷ノボルは主人公の妻クミコの心に、永沢さんは恋人のハツミさんの心に。
彼女らはシステムに踏みつぶされ、穢される存在なのである。


一方、主人公は(ノルウェイの森ではそれほど顕在的に描かれないものの)邪悪な彼ら
とは反対の立場に立ち、対峙する存在であるものの、どこか女性的で弱々しい。
システムに対峙し立ち向かう、というよりも、システムになじめずになんとか生きて
ゆく、というスタンスに置かれている。
そんな中で主人公たちは例外なく「きちんと」生きようとする。
(村上作品の中でいかに「きちんと」という言葉が多用されていることか!)
ここで言う「きちんと」は暴力的・圧政的なシステムの力に頼らずに「きちんと」
生きる、ということだ(システムに頼って頼って生きるのはたやすいことだ)。
主人公たちは、「きちんと」生きるために、注意深くスパゲティを茹で、部屋を
清潔にし、髭を剃り、女性に礼儀正しく精一杯正直に接する。
馬鹿馬鹿しいように思えるけれど、それこそが邪悪なシステムに対抗する隘路なのだ。


読んだ人誰もが気づくであろう、村上作品に漂う「死」の色濃いイメージ。
日常生活では誰もが禁忌的に取り扱っている死が、主人公の周りには色濃く影を落とす。
村上春樹が語りたい主題の一つが「生と死」にあることは明白で、それも死が人生に
落とす解きほぐせない関わりにある。登場人物たちに対して身近な者たちの死が与える
影響は、執拗で暗く、とても重い。
しかし、村上はこれを『書かずにはいられなかった』のだ。
他者の死は、どんなに意識の表層に蓋をしても、人の心の奥深い部分に沈み込み、
無意識の中に沈殿していて、人の行動を規定し決定づける。
死の人生への影響を通して無意識の世界への隘路を開くこと。
村上作品によく登場しているモチーフに「井戸」がある。これは言うまでもなく
意識と無意識をつなぐ架橋的存在と思うのだが、村上は小説を書く、という行為を
通してこの「井戸を掘り続けている」し、それが彼にとっての小説を書く意味なの
だろう、と思う。


システムに囚われることなく逞しく生きる女性たちの存在も原点の一つだ。
ねじまき鳥クロニクル」で言えば笠原メイがそうであるし、「ノルウェイの森
では小林緑がそうである。彼女らは主人公たちが対峙する邪悪なシステムに穢される
ことなく、健やかに生き、主人公たちに「生」を運んでくる存在だ。
「メイ=(5月)」や「緑」という名前が持つイメージからして、生の輝きを体現
しているではないか。どちらの小説においても、主人公とこれらの生を暗示する存在
との関わりの中、物語は幕を閉じる。
彼女たちは、主人公の(いや、村上春樹の)「生への希望」の象徴なのだ。


改めて「ノルウェイの森」を一気に読んでみて、村上作品の原点が技巧的でなく、
とても素直にさらけ出された作品、と思った。
この小説は一気に書かれた、と聞くがさもありなん、である。
以前読んだ時、僕はそのあまりのストレートさにピンとこなかったのだと思う。
今読み返してみると、佳作である。
こんどは処分せず、本棚に置いておくことにしよう。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

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遠い太鼓 (講談社文庫)

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