村上春樹「1Q84」を読んで
「1Q84」を読了した。
いつものことであるが、僕は村上作品には圧倒される。
どこに圧倒されるのか?
村上春樹は、あらかじめ自分で語りたいものをしっかり理解していて、それを作品を
通して語っている人ではないと思う。村上は常に「自分自身よくわかっていないし、
掴めないもの」を心の(それも個人の心ではなく、ユング的集合的無意識的な心という
イメージ)深い部分から四苦八苦しながら汲み上げてきて、それを僕たちに「物語」と
いう形に再構成して提示する。
注意深く、論理的かつ分析的に、厳密に書けばそれは「論文」になるかもしれない。
しかし「論文」は正確ではあっても、恐ろしく狭い部分についてしか語ることが
できない。一方、「物語」は正確さには欠けるかもしれないが、「論文」よりも
ずっと広い部分について「語る」ことができる。
村上春樹が「物語」を書くのは「論文」では伝えられない何かを伝えるためだ。
この世界は言葉によって「構築」されているわけであるが、実際に世界を構成している
ものは実のところほとんどは「言葉で表し得ないもの」である。
その「言葉では表し得ない部分」にアクセスしようと村上は悪戦苦闘している。
その表し得ない部分は、間違いなく「性」や「暴力」や「信仰」に集合的無意識の深い
深いところで繋がっており、そこへのアクセスはファンタジックな物語においてのみ
可能なのではないだろうか。
「ねじまき鳥クロニクル」の言葉を引用すれば、村上春樹はその隘路を通って「井戸を
降りてゆこう」としている。
これはまさにアート(芸術)でしかなしえない行為であると思う。
そう、ちょうど「神話」がそういった役割を果たしてきたのと同様に。
神話は人々の口伝によって数千年の時の試練に耐え、語り継がれてきた。
それらは荒唐無稽なファンタジーであっても、それらは人々の心の深い深い顕在化し
得ない部分を共振させ、揺り動かし、共感を生むが故に語り継がれる。
村上文学が世界各国で読まれ、共感され、支持されるのは、単に現代的な消費文明での
生活スタイルや自由の孤独を描いたからでも、お洒落な比喩や文体によるものでもない。
彼の文学が深いところで神話の持つ普遍性につながっているから、と僕は思う。
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