風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

正倉院展

秋晴れの連休の中日、奈良の正倉院展を訪れた。
毎年わずか17日間しか開催されないのに加えて今回は記念の第六十回ということで
例年以上の混雑も予想されたけれど、思い切って出かけた。

夕方の空いている時間帯を狙ったので幸いにして30分待ち程度で中に入館できた
ものの、混雑はやはりすごかった。壁際のガラスケースの品物もそうだけれど
独立して部屋の中程に置いてあるガラスケースの周りは特に混雑がひどい。
人気のあるデパートのバーゲン会場の状態、と言えばご想像いただけるだろうか。
係員は「立ち止まらず動いてください!」と「先のほうは空いています。そちらから
ごらん下さい」と叫び続けていた。

まぁそんな喧噪の中だから落ち着いてゆっくり見る、というのは不可能ではあった
けれど、展示品は想像以上に素晴らしいものだった。
今回の目玉の一つ、カットグラスの「白瑠璃碗」は1300年の時を超えて輝きを保って
いた。
その造形のバランスの見事さ!
デザインが完璧で完結している。
「蘇芳地金銀絵箱」「紫檀木画双六局」「平螺鈿八角鏡」などの細工物の繊細さ、
精緻さも素晴らしかったけれど、一方には「漆挾軾」「紫檀箱」のようなシックさと
シンプルさを両立させたようなものもある。天皇への献上品であるわけだから当たり
前の話だけれども、ひとつひとつが完璧で手を抜いたような部分がまったくない。
本当に、完璧な品々なのだ。
(上に挙げた展示品のいくつかは以下のHPで画像で見ることができる)

第60回正倉院展HP

このように展示品はどれも本当に素晴らしいものばかりだったのだけれども、一方では
僕は不遜にも「素晴らしい工芸品だけれども芸術ではないな」とも思っていた。
昔、台湾・台北故宮博物館でも、僕はまったく同じ感想を持ったことがある。
どの細工物も息を飲むほど素晴らしいのだけれども「芸術ではない」のだ。
「では工芸と芸術とどう違うのだ?」と正面切って聞かれると僕も困ってしまう。
日常的実用性があるものを工芸、実用性から離れたものを芸術という分け方もある
ようだけれども、僕が言っているのはそういう意味とは少し違う。
うまく言えなくて申し訳ないのだけれど「美に向かう姿勢が違う」とはなんとなく
言えそうな気がしている。芸術に関して言えば美と作品の関係は必ずしもリニアでは
なく、ねじれていたり、複雑に絡まっていたり、素直でなく反転していたりもする。
結果的にある種の芸術は「快さ」を人にもたらさない。
シェーンベルクの音楽のように、作曲家その人が不快さに苦しむことすらあるのだ。
しかし工芸品はそうではない、というのが僕の今の語彙で言えることだろうか。

さて、話を戻そう。
それら展示品と共に写経巻物も展示されていた。
これらの写経の書が実に美しかった。
天皇が亡くなると鎮魂の意味でお経を写経させて納める、ということが行われて
いたらしいのだが、当時の一流の書家が一字一字全身全霊で写経したのだろう。
美しい字は、実に美しい(同語反復になってしまった ^^;)
僕は字が下手なので、思わず書道教室に通いたい!と思ってしまった。

ところで奈良公園もそこそこ紅葉が進みつつある。

下の写真は若草山
秋晴れの素敵な奈良の一日だった。