風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

生の豊穣さを感じたい

お盆休みということで自宅に帰ってきている。
今日、Tシャツに半パン姿でかっと日光が照りつける日中にスーパーまで出かけた。
夏空、きつい日光に輝く緑、セミの声。
こういったものが東京にいるより自宅のほうが鮮明に感じられるのはなぜだろう。
あらゆることが「心の余裕」と関わっているような気がしている。

ブログだってそうだ。
日々日記は書けても、何かを考えて書く、ということから久しく遠ざかっている。
ある人が「リアル世界が充実しているとネットが遠くなる」と書いていた。
それは紛うことなく真実の一部を含んではいるけれど、真実の全てではない。
たとえネットが遠くなっても人生が「生の豊穣さ」に溢れていれば良いのだが
「リアル世界の充実」が「生の豊穣さ」を含んでいる保証はない。

僕のリアル世界は充実しているのか?
ある部分ではそうなのかもしれない。
やりがいのあるチャレンジングな仕事があり、任務があり、向かってゆくものが
ある。不安や苦しみもあるけれども生き甲斐だって感じている。
報酬にもポジションにも文句はないし、家庭も円満だし何も問題はない。
それでも、自分が生の豊穣さを感じているか、と問われれば肯定できない。

名をなした経済人たちの自伝や本を読むと、やりがいのある仕事を通して自己実現
ができ(金銭的満足だけではない)心の幸福にいたることができた課程が描かれて
いる。しかし「やりがいのある仕事」や「金銭」や「社会的地位」だけで心の幸福
が得られるのだろうか?
僕にはどうしてもそうは思えない。

今の僕には「生の豊穣さ」が足らない。
だから、どこかしらひからびたミイラみたいなのだ。
僕の求める「生の豊穣さ」はやりがいのある仕事をばりばりやることや、存分な
金銭的報酬をうけることや、社会的に認められることから汲み出すことは無理だと
わかった。

僕に必要なのはもっと違うものだ。
仕事から離れられる心の余裕を持つこと。
青空や夕焼け空や木々の緑を見て深呼吸できる隙間を持つこと。
一人で温泉宿にでも出かけてのんびりできるようなメンタリティを持てること。

僕はどうやら上手な人生の楽しみ方を知らないようだ。
だからといって「では人生の楽しみ方を身につけるように頑張って勉強しよう」
なんて方向性はますますもって事態を悪化させることぐらいはわかる(苦笑)
特にどうしようとも思わないけど、少し悲しいことだと思う。