風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

知のエロス 〜 内田 樹先生賛

以前から内田樹先生の本をあれこれ読んでいる。
最近沢山本を出しておられるので、それでもまだ著書の半分ぐらいだろうか。
もっともブログは日々読んでいるので、かなりの量のテクストを日々目にしている
と言っていい。

内田先生の本は読んでいて楽しい。
「知のセンス・オブ・ワンダー」「知のエロス」に満ちているのだ。
ご自分で「構造主義者」とおっしゃっている通り、先生は構造主義的視点から
社会や人間を斬った物言いをされているわけであるから、構造主義シンパの僕に
とって言説が心地よく響くのは当たり前としても、それだけではない。
内田先生の文体や書き方にもその魅力はある。

内田先生の文章は「適当に」難しい。
そして「適当に」哲学者や思想家の言説の引用がある。
そしてその引用される哲学者や思想家には「適度に」マニアックなものが含まれて
いると同時に「適度に」広く知られている思想家たちからの引用もある。
この辺も”知の愛好者”たる僕がひどく「そそられる」ところなのだろう。

そしてもう一つ、さらに言えば、内田先生の言説は「けっこう怪しい」(笑)。
ひとつひとつ言っておられることの内容や理路を精査してゆけば、確言はできない
ことも多いものの(構造主義者の常としてもちろん先生は『確言』などされない。
自説を絶対正しいと確信すること自体「構造主義的」ではない)逆に「それは明
らかに間違いである」と論破することも難しいストライク・ボールの判定の難しい
ぎりぎりのところに先生のボールはコントロールされている。
しかし、それは書き手として内田先生が意図していることではないか。
先生自身もおっしゃっている通り「最初に著者の意図があってそれが文章で表現
されるのではなく、文章を書いているうちに著者の意図は立ち上がるものであり、
その過程でで著者自身が『自らが知らなかったこと』を発見することこそが文章
を書くことの意味」だからだ。

自らの知の水平線に挑み、そこを超えて何か新しい知見を汲み出すこと。
この過程で、内田先生はぞくぞくするほどの「知のエロス」を感じられたに違い
ないし、それは読み手の側にも明確に伝わってくる。
こんなことを言うと怒られるのかもしれないが、内田先生の書くものは「理非
を超えて面白い」。物事の理非は近代合理主義者や主知主義者が信じているほど
鮮明ではないが故に面白いのだ。もっとも「構造主義的に見ればこうも解釈でき
てしまうんですけど」という内田先生のぼそぼそとした呟きが光彩を放つのは
「本当の物事の当否など容易にわかるものではない」と考えている読者に対して
だけなのかもしれないが。

内田先生の書き物についてはいろいろと異論、反論があることも承知しているが
僕にとっては得難い「知のエロス」をもたらしてくれる書き手であることは間違い
ない。なによりも「ああ、この文章は自分にどんな新たな知見をもたらしてくれ
るのだろう」とわくわくしながら『書き手が書いている』文章を、寡聞にして
僕は他に知らない。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

凡百の格差論、下流論をはるかに超えて面白い(他の論者とまるきり視点が違う)
のでありますが「思考実験の一つ」と考えて読むかどうかで面白いと思うか、
腹立たしいと思うか分かれることでしょう。
事実、怒っている方も多数おられるようです(笑)