風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

古楽器の演奏を聴いて

今週は赴任地で週末を過ごしているのだけれど、昨夜急に思い立って今日の
午後、コンサートを聴きに行ってきた。曲目に僕の好きなバッハも含まれていた
古楽器のコンサートだったのだが、残念ながらいまいち、であった。
演奏者も名前の通った人で、楽器もなかなか良い楽器だと思われたのだが
正直に言えば僕はどうしようもなく退屈してしまった。
いったいどうしてだろう?

理由の一つに使われた古楽器が非常に音の小さなものであったことが挙げられる。
音は小さいけれが非常にニュアンスに富んだ音色の良い楽器なのだけれど、いかん
せん楽器からの距離(僕の場合で15m程度)に対しては音が小さすぎる。
もちろん、小さな音でも集中することによって聴取することはできるのだけれど
それを続けていると聴衆は「疲れる」のだ。
もう一つの要因として、僕があまり知らない作曲家の知らない作品であったこと
も挙げられる。クラシックに限らないと思うけれど、よほど素晴らしい曲の場合
は一度聴いて虜になる、ということもあるけれども、何度も聴いて段々親しみを
覚えたり、曲の構造や作曲の工夫に気づいたりすることによってその良さ、素晴
らしさに気づく、というパターンも多い。
では一度で良さがわからないのに、何故何度か聴いてみる、というパターンに
入るかというと、耳慣れない曲にせよその演奏が良い演奏で、自分がひきこまれる
「何か」を感じたから、という場合が多いように思う。

今回の場合、知らない作曲家の知らない作品について(たぶん演奏は良いのだろ
うけれど)あまりに音が小さいために僕にひっかかりを与える「何か」が十分伝
わらず、それで僕は退屈してしまったのではないだろうか。
もちろん、その作曲家のその作品と僕の相性が良くなく良さが(どんな演奏に
せよ)わからない、ということもあり得るのだが。

上で挙げた「音が小さすぎるが故に良さが伝わらない」ということは、バッハの
作品でも同様に感じられた。演奏されたバッハの作品は僕も十分よく知っている
好きな曲だったのだが、退屈、という印象は抜きがたかった。
古楽器ならではのニュアンスの豊富さなどは感じられたにもかかわらず、だ。
そして逆に、僕はこの繊細でニュアンス豊かな楽器が結局のところメジャーに
なり得なかった原因もわかったような気がした。結局、この楽器は、周囲5mまで
のところに聴衆を集めて聴かせる楽器なのだろうと思う。

古楽器、オリジナル楽器による演奏にはこのような微妙な問題がつきまとう。
結局のところ、聴衆は良い音楽を聴きたいわけだが、音楽を聴取する前に今回の
ような小さすぎる音に始まり、耳慣れない響き、異なったピッチ、テンポなど
によって「音楽」を聴取する前に「つまづく」こともあるのではないか。
といってそういった「つまづき」そのものを取り除くこと自体の是非ももちろん
問題にはなるだろう。クラシック音楽は、聴衆に「快」を与えること「だけ」を
目的にしたものではないからだ。
ここではオリジナル楽器の演奏会には難しさがある、というに留めておく。