風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

現代思想と「今を生きる」ことについて

最近、訳あってドラッカーとかコトラーとか稲盛和夫とか仕事絡みの本をやたらと
読んでいるが、京セラの創業者である稲盛和夫の本を読んでいて興味を惹かれた。
稲盛氏は彼の経営論、経営哲学の根本に「人間として正しいこと」をベースに置いて
いる、と書いている。

【引用始まり】 ---
私が言う人間として正しいこととは、たとえば幼いころ、田舎の両親から
「これはしてはならない」「これはしてもいい」と言われたことや、小学校
や中学校の先生に教えられた「善いこと悪いこと」というようなきわめて
素朴な倫理観にもとづいたものである。それは簡単に言えば、公平、公正、
正義、努力、勇気、博愛、謙虚、誠実というような言葉で表現できるもの
である。
 経営の場において私はいわゆる戦略・戦術を考える前に、このように
「人間として何が正しいのか」ということを判断のベースとしてまず考える
ようにしているのである。(「稲盛和夫実学」より)
【引用終わり】 ---

京セラはバブル期にも投資等に浮かれることなく、着実に会社規模を大きくしている
優良企業であるのだが(実は、ここで行われている「アメーバ経営」に興味を持って
僕はこの本を読んだのだが)そのベースになっているこの稲盛氏の哲学は、至極
まっとうなものだし、それがこの会社の成長を支える柱であったことは間違いない
だろう。

さて、この話はこれで於く。
僕が興味を持ったのは経営論がどう、とか経営哲学がどう、とかいう話ではない。
現代思想は、人間の自我などというものは氷山の海上部分のようなもので、その下
には巨大な制御不可能な無意識領域があり、従って人間は自らの行動を意志的に
コントロールするのは至難であること、「理解」というのは実は「誤解の総体」の
ことであり、社会は事実や真実の集積ではなく人々の「共同幻想」の集積に過ぎず、
社会事象とは一つの原因に帰着できず、その事象自身が繰り込まれた無限と言って
いい原因が織りなす超複雑系・超非線形系であることを語っている。
このような知見が正しいとすれば、稲盛氏のようなシンプルな倫理観をベースにした
哲学がこの社会で有効であり、有益であるのはどういう理由に帰結するのだろう?
実はこれが僕が興味をもったことなのだ。

かなり昔から「現代思想は無意味だ」「社会を改良する役にちっとも立たない」
「哲学者の遊びだ」といった批判は繰り返されている。
しかし僕はそう思っていなくて、この世界や社会や人間の成り立ちを詳しく知る
ことこそ自らが今を生きることに直結するはずで、大切なのは「現代思想の知見」
と「自分が現実を生きるやり方」の間に隘路を見つけることだ、と考えている。
自分自身の悪い頭とわずかな経験で得られたものだけで、自分の哲学を作り上げて
も多寡が知れているからだ。
稲盛氏の他の著書を読んでみたが(例えば「稲盛和夫の哲学」)彼の哲学はある意味
非常にプリミティブといっていいもので(しかしながら非常にまっとうで真面目な
ものである。僕はそれには感動したし共感した)現代思想が明らかにした複雑怪奇な
世界観に繋がってゆくものではない。

僕には今、二つの考えを持っている。
一つは、現代思想の描き出す世界が「実世界の写像」としてある程度の整合性を持つ
ものと考えて、ある種の哲学・倫理はその中でも宇宙に対するニュートン力学の役割
(近似解を得るための線形方程式)を果たしているのではないか、という考え。
宇宙そのものも非線形複雑系であるが、ある部分についてはニュートン力学で用は
足る。それがひょっとしたら単純素朴な倫理観が相当する部分なのかもしれない。
例えば、常識的に考えれば「愛」は「憎しみ」と非常に近いものである。
そうなると「愛」をベースに倫理を組み立てることは本来非常に危ういはずであるが、
ある領域ではそれが有効であることもわかっている(もちろん「常に」ではない)。
これは社会の共同幻想に存在するバイアスに起因するのだろうが、複雑な連立非線形
方程式を解かずしても「近似解を得る道」があることが示されているのではないか。

もう一つは、人間は結局「実存」として生きるしかない、ということである。
ずいぶん昔、サルトルレヴィ=ストロースの間で論争があった。
ここでは当時無敵だったサルトルレヴィ=ストロースによって粉砕され、思想の
世界は実存主義から構造主義に大きく舵が切られたのだが、実はこの論争でレヴィ
=ストロースが粉砕したのはサルトルマルクス主義の部分であり、実存主義
部分ではなかったことはあまり知られていない。
結局、世界や社会の構造がどんなであったとしても、人は「闇夜に懐中電灯で足元
を照らしながら山登りをする」ように、瞬間瞬間に次の一歩をどちらに踏み出すか
を決めて行動する(つまり『投企』する)しかないのだ。
その時、人はいちいち連立非線形方程式を解いて答を出すことはできない。
ではどうするか。
上に書いたような「近似解を求める方法」を掴んでおくしかない。
おそらくは、昔から言われている倫理や生き方や哲学は、その近似解を出すため
の良い手法なのだろう。もちろん「近似解」だから間違いも時々起こるし、極限
領域では有効ではないだろう。
しかし、投企するのに何もないよりは何かあったほうがいい。
そういうことではないだろうか?

流体力学を使ったコンピュータ・シミュレーションでは、実際に連立非線形方程式
を解くのだが、この時どうするかというと(解析的には解けないので)「一歩踏み
出してみて斜面の勾配を足で確かめて、頂上に向かうような傾斜なら次の一歩を踏
み出す」というようなやり方を取る。その瞬間瞬間においては非線形だが「線形近似」
して数値計算しているのだ。そしてそのとき緩和係数という数学的な仕掛けを使い
現実から大きくズレて結果が発散しないように(結論が得られるように)する。
現代思想が語る社会・世界との中で我々が実際に生きる生き方に実によく似ている
なぁと思うのだ。
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読者の皆様、今回は長くてややこしくてすみませんでした。
でも思っていたことを全部書けたので僕はすっきりしました。