風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

どうして言葉が人に通じないのか

一つ前の記事に書いた本「言葉はなぜ通じないのか」を読了しました。
この本の面白さは少し記事でも触れたけれども、僕にとっての「面白さ」は一旦
置いて、違う部分(この本の著者が結論として書きたかったこと)について今日は
ご紹介したいと思います。

【引用始まり】 ---
私たち人間は、根本的に情緒存在です。その意味は、ハイデガーが見抜いた
ように、いつもこの世界に投げられており、気分づけられているということ
です。また、共同性に向かって開かれているということでもあります。
 言葉はどんなに論理的な体裁を保っていても、この情緒存在であるという
事実を基盤にしながら、人間自身の可能性を切り開くための自己投企として
発せられるのですその人の背負っている情緒的な共同性が互いに食い違って
いれば、当然、そこに齟齬の可能性が生じてくるわけです。言葉の齟齬の
可能性は、情緒存在である人間どうしが、言葉のロゴス的側面を自分の
情緒の表出のために利用するところに生まれてきます。
【引用終わり】 ---

哲学用語が出てくる上に、最初からこの本を読んでいない方には少々わかりにくい
かと思うので、かみ砕いて解説するとこういうことになります。

人間とは感情的な存在で社会の中を基本的には感情で生きている。一見「論理的
な言葉」も、実は自分が社会にかかわっていこうとするために発せられるもので
あるから、ある人とある人の間で「この人とは気持ちが通じてる!という感情
(=情緒的な共同性)」がない限り、いかに論理的な言葉でも相手には届かない
ものなのだ。そしてそういうトラブルは、人間が、言葉の論理性(=自分の正義)
を、実のところ自分の感情表現として使っているから起こる。ということです。

少し引用を続けます。
【引用始まり】 ---
一見冷静で、感情的な対立ではないように見えても、じつはそこには感情的な
対立しかありはしないのです。そして、この感情的な違和が双方にあるかぎり、
いくら論理的な言葉を重ねても、「わかり」はやってきません。
 たとえば思想界には、保守派と左翼との論争がしばしば見られます。あれを
見ていると、論理を存分に駆使しながら、細かい歴史の知識などをなるべく
精確に援用し、必死で客観的たろうとしていますが、しょせんは双方が感情的
な確信(価値観)をぶつけ合っているだけで、いつも平行線に終わっているなあ
という絶望的な印象を持ちます
【引用終わり】 ---

この文章は説明は要りませんね。
そして、小浜氏はではどうしたらいいの?という問いにこのように答えます。

【引用始まり】 ---
ですから、私たちが言語の疎通の難しさを自覚して、その責任の一端(away
補記:相手との間に情緒的な共同性を築くことができなかった責任)が自分
の側にもあると思えたならば、字義どおりの言語表現の是非だけを検討する
のではなく、自分の情緒や気分を変容させる条件はなんだろうか、というふう
に発想する必要があると思います。
【引用終わり】 ---

この小浜氏の解釈は、営業の仕事を長年やっている僕には常識、と思えます。
例えば取引先を説得するには、前もって「共通の情緒的雰囲気」を作っておか
ないとなかなか難しい。ロゴス中心主義に思われている欧米ビジネスマンでも
取引先を自宅に招いたり食事を共にしたりして「共通の情緒」を作るのに必死に
なっている。彼らもいかに「共通の情緒」が大切か熟知しているからです。
相手との間に「共通の情緒」が出来なければ、ごく簡単な理屈さえ受けいれて
貰えないことが多いですから。そして相手と「共通の情緒」を作るためには、
まず「この相手と感情的に通じ合おう」という「自分の気持ちの持っていき方」
こそ、なにより死活的に重要なのです。


翻ってネットの世界を見渡してみると、あらゆるところでいわゆる「不毛の議論」
が溢れかえっています。論理でもって説得するのはリアルの世界ですら上述の通り
困難なのに、情緒的共通性を築く手段がそれ以上に限定されるネットの世界では
もっと難しいことでしょう。
もちろん、多くの議論においてはそこで紡がれているロゴスの殆どは、書き手の
優位性をアピールするために蕩尽されているようにも思えます。
しかし、そうなるともう、コミュニケーションではないと言わざるを得ない。

「三方一両得」という言葉が昔は使われましたが、今の世の中、せちがらくなって
いるのか今は「ゼロサムゲーム」「勝ち組・負け組」のほうがよく使われるよう
です。しかし「ゼロサム」では傷つき傷つける(勝った負けた)ゲームが繰り返
されるだけで、長期的にはお互い疲弊してゆくだけだし、何も新しいものは生み
出さないでしょう。
いずれにせよ、僕たちは言葉を通じ合わせるためには、自分たちの本質である
「情緒性」についてもっと謙虚で、そして懐疑的かつ自省的でなければならない
と思うのです。