風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

虐殺・イジメ・怠け者を考える

どんなことでもそうだけれど、最新の知見が現実の社会での応用されるには時間が
かかる。科学技術にしても相対性理論が完成してから原子炉が実用化されるまでは
ずいぶん時間がかかっている。しかしながら、社会科学が実用的な社会理論に組み
込まれるのは少々遅すぎるのではないか、と感じる。

例えば「大量虐殺(ジェノサイド)」を例にとってみよう。
「大量虐殺」は特定の『残酷な連中』が悪意を持って「主体的に」目障りな連中を
排除しようとした、というような簡単な問題ではない。社会という複雑系システム
全体の不具合によって構成員の自己防衛本能が極限まで高まったときに、ある
特定集団を「異物」と見なすようになり、その異物を排除することでシステム全体を
守ろうとする切迫した自己防衛本能と恐怖と不安に駆動されたある種の「爆発」と
解釈するのが妥当で、特定の個人や集団に責任をかぶせて「あの連中は特別な
残虐な連中だった」と非難しても(自分たちからは遠い話、と安心はできるかもしれ
ないが)本質的な解決にはならない。

面白いことに、現在日本で頻発する『特定の個人を持ち上げておいてから手のひら
を返したように糞味噌に叩く』というメカニズムもこれに通底するものがある。
つまり、現代日本社会も相当に不安・恐怖が高まっている状態と言っていいだろう。
中学校のイジメなどもこれと同様で、システム全体の不調がある局面で症状として
現れていると考えれば、局面の『個人』を何とかするという対症療法以外にシステム
全体に内在する不安と恐怖のテンションを下げることこそ肝要であろう。
イジメもまた複雑系システムの不調がたまたまある形で現れたに過ぎないからである。
しかし、こういった考え方が社会にまったく浸透していないことは、殺人事件やら
異常な事件が起こるたびに繰り返される、ステロタイプ化したTVコメンテーター
たちの談話を聞いているとよくわかる。

同様にマネジメントにおいても、例えば「出来ない人たち」を単純に排除すること
は短期的にはともかく長期的には解決にならないことが多い。
「働きアリの法則(←嘘、という噂もありますが ^^;)」あるいは「パレート則」
によれば、集団は必ず20%の怠け者を含むわけで、逆にその20%はシステムの
安定の為に必要不可欠な構成要素であるという前提に立ったマネジメント理論が
そろそろ求められるべきではないか。組織のマネジメントにおいて肝要なのはシス
テム全体の最適化であり、トータルパフォーマンスが上がれば良いのだから。
これからのマネジメントではやっきになって「怠け者」のパフォーマンスを上げよう
としたり、あるいは「怠け者」を異物として排除するのではなく、システム全体の
最適化のために「怠け者なりの役割」を割り振ることが大切なポイントになりそう
な気がする。(そのためにはトップが、こういった知見を共有してくれないといけ
ないのだが)

このように、現代の社会科学の知見に基づく世界観は、割り切れず、矛盾に満ちている。
割り切れる事はまずなく、人は常に曖昧な矛盾の中で生き、材料がない中で決断を
求められる。そんな中、誰しも不安だから自分なりに縋るものを探して「決めつけ」
たり「原理を探して割り切ろう」とする。(特にアメリカ社会、アメリカ思潮を見て
いるとそれを痛感する。アメリカ社会もまた不安と恐怖に満ちたシステムなのだろう)

これから人に求められる「強さ」とは、矛盾で曖昧な混沌に満ちたシステムの中で、
表層的な論理やシンプルな教条に基づいて割り切ることをせず、ギリギリまで踏み
とどまった上で、自分の最終的な決断を社会に投げ入れる勇気を持つ、ということ
ではないだろうか。