風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ワーグナーとドイツ人

出張が続く日々。
先日、仕事が終わって飛行機に飛び乗った。
今月の機内誌もショッピング誌もいまさら開く気もしない。
あまりに疲れていて頭がぼんやりしている上、目の焦点が合わないので本を
読む気にもなれない。
そこで、アームレストにヘッドホンを差して音楽を聴くことにした。

今月はオペラの二重唱の特集、ということでラ・ボエームやら椿姫やらの男女の
二重唱が流れるのをぼんやり聴いていた。
僕はイタリア・オペラは正直なところ苦手で、いまひとつ聴く気にならない。
しかし、そのうちプログラムが切り替わってワーグナーの「トリスタンと
ゾルデ」を流しはじめた。
久しぶりに耳にするワーグナー

リヒャルト・ワーグナーの音楽については僕はこちらの過去記事で触れたことがある。
僕の評価を端的に言えば「ワーグナーによってクラシック音楽は性と暴力と背徳
の陶酔と快楽を語れるようになった」というものだ。
途切れることのない調性すら危うくなるような無限旋律、巧妙に配置されたライト
ティーフの数々、そして歌い手に要求する過酷な超絶技巧。
ワーグナーの音楽はひとの心の暗部に潜むいろいろなものを浚い取って、それを
浮かび上がらせ、音楽の形で提示してみせる。
その提示の仕方が巧妙なのだ。
ワーグナーの手にかかると、どんな背徳・悪徳でも徹底的に蠱惑的で美しいもの
として提示される。

ドイツ民族というのは、すごい民族だとつくづく思う。
キリスト教において教会の権威を否定し、神と個人の直接の対話に再構成したのも
ドイツ人(ルター)
神と人間の間で壮大な音楽を築いたのもドイツ人(バッハ、ベートーヴェン)。
理性による壮大な哲学体系を築いたのもドイツ人(ヘーゲル)。
唯物論の視点から世界を見て共産主義を生み出したのもドイツ人(マルクス)。
そして一方では、強制収容所で600万人のユダヤ人を自動車を生産するかのように
冷静に・効率的・計画的に抹殺したのもドイツ人。
すべてに共通するのは『妥協なく徹底している』ということだ。

僕は、ワーグナーの音楽の徹底ぶりも一種病的だと思う。
誤解を恐れずに言えば、その病気はドイツ民族の心性に起因するものかもしれない。
何であれ徹底的に突き詰めずにはおれないようなそんな心性。
そしてある場合には、突き詰めることそれ自体に夢中になってしまって、どこかに
大切なものを置き忘れてしまうこともあるのかもしれない。

もうじき僕はドイツに渡る。
ドイツ人たちが「ガンツ・ゲナウ!(まさにその通り!)」と大きな声で主張する
のを耳にすることになるだろう。
その自信に満ちた声を聞くたびに僕は思う。
同じ人間とはいえ、民族性というのは間違いなくある、と。