風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

音楽会

久しぶりに音楽会へ。
演奏者は一人のピアニストと二人のヴァイオリニスト。
250席ほどの小さなホール。
有名な演奏者ではないし、ごくごくローカルでintimateな音楽会。
しかし想像以上に楽しく、想像以上にこころが癒された。

まず演奏されたのはピアノ独奏でショパンの「スケルツォ1番」。
ピアニストの緊張が伝わってくる演奏。
音色も硬くミスタッチも散見され、聴いていてドキドキしてくる。
それでもピアニストが独自の解釈を見せようと工夫していることがわかる。
中間部の穏やかに歌うところ、普通のピアニストと違う強弱、アクセントで弾い
ていたのが興味深い。帰宅後、この曲の原典譜に当たってみたら奏者自身の解釈
(つまり、ショパンの指示を無視して弾いている ^^;)であることがわかった。
奏者が伝えたかったことは残念ながら理解できなかったけれど。

ラフマニノフ変ホ短調の練習曲の後、ピアニストは二人のヴァイオリニストと
共にバッハの「二台のヴァイオリンのための協奏曲」を演奏する。
僕はこの曲を一番楽しみにしていたのだが、大変残念なことにポリフォニックな
構成美が感じられない、バラバラでおざなりな演奏だった。
彼女らは本当にこの曲をやりたかったのか?という疑問が湧いてきたのだが、
その疑問はこの後の演奏を聴いて確信に変わった。

サン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」
サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン
どちらもヴァイオリンの難曲なのでしょう。こういう曲になるとヴァイオリニスト達は、
獲物を狙う豹に変身し、打って変わって生き生きと演奏する。
特にツィゴイネルワイゼン
僕はこの曲が生で演奏されるのを見たのは初めてなのだが、まさに演奏テクニック
の見本市のような曲だ、と感心した。
立派なテクニックの立派な演奏。
しかし「感心」はするけれど「感動」はない。
芸術は曲芸ではないのだ。
残念ながら。

ヴァイオリニスト達はその後、バルトークの「44の二重奏曲」からの抜粋を演奏
した。この曲はバルトークピアノ曲集「ミクロコスモス」やいくつかのハンガリー
民謡集に通じるような、素朴でフォークロア的な味わいがある。
この曲も、彼女らが是非やりたかった曲なのだな、と伝わってくる。
演奏が「ほら、こんな面白い楽しい曲もあるのですよ!」と主張していたのです。

最後にモシュコフスキーの「二つのヴァイオリンとピアノのための組曲
これはとても良いできだった。
ピアノとヴァイオリンのバランスも、そして何より、彼女らの「世に知られて
いないけれどこんな素敵な曲もあるのです。これを機会に知ってください」と
いう濃いメッセージが伝わってきたところも。

音楽を聴くとき、僕は全面的には陶酔できない。
ここに書いたことは、その時々に聴きながら考えていたことだ。
音楽が僕を惹きつけ、感覚の深い部分が陶酔していても、頭の一方では音楽に
ついていろいろと考え、語りたくなっている。
恐らく僕は右脳にすべてを委ねることができない人間なのだろう。
ある面ではそれは不幸なことかもしれないけれど。

それが僕という人間だし「僕の音楽の楽しみかた」なのだと思います。
こんなに楽しめるのだから、一人ででもちょくちょく音楽会に足を運んでみよう
と思った。