風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

自分の哲学

若い頃、人生で起こること、世界で起こること、何についても明確な答えを一瞬
で出したい、と熱望していた。確固とした自分の哲学を、社会観を、生き方を
持てば、きっとそうなれるはずだ、と思っていたのだ。
それからいろいろ本も読み、いろいろな人の生き方に触れてきたが、この歳に
なってもまだ確固とした明確な哲学は手の内にはない。
そして、そういう「整合性のある完全な哲学」が手に入ることは永遠にない、と
いうことも理解できるようにもなりました。
たぶん僕も多少は大人になったのだろう(苦笑)

思考停止して「快・不快」「好き嫌い」で判断することにすれば、そんな七面倒
な哲学の構築なんぞする必要はない。また、宗教の力を借りたり、借り物の思想
を持ってくればインスタントに「自分の哲学」を作ることだってできる。
しかし、それでどうしても満足できないのは、やはり僕の『業』なのでしょう。

さて、自分の哲学を明確に持つ、ということは、世界に向けて開いている自分自身
の両腕を閉じることだ。世界全てを自分の両腕に囲い込めない以上、閉じることは
そこで自分の考え方を固定し、それに当てはまらない事象を判断対象からはずす、
あるいは切り捨てるということだ。たとえ不完全であっても自分の哲学を持ちた
ければ、いつか、どこかで、その作業をせざるをえない。
僕はまだその作業をしたくないのです。

この不条理な、この理屈に合わない、この喜びよりも悲しみのほうが多い謎に
満ちた世界を「こういうもの」という言い方で括ってしまいたくない。
今は囲い込めないものも、いずれ自分の中に取り入れて自分の哲学をもっと
大きくできる可能性を残しておきたい。
本を読むこと、世界を知ること、人とコミュニケーションすること、全ては
そこに繋がる行為なのだ。

ただ、僕も人生の残り時間もカウントしなくてはならない。
例えば、これから死ぬまでにいったいどの程度の本を読むことができるのだろう。
新しい本を読めばいいだけじゃない。再読しなくてはならない本だって沢山ある
のだ。そして「再読しないといけない」と思うような本に限って通勤電車の中
で読むのが困難な(集中力を要する)本ばかりなのだ。
そうすると、本気で読む本、再読する本を不本意ながら選んで、それに時間を
作ることも、そろそろはじめないといけないのかな?と思ったりもする。
(このことについてはまた別記事で書こうかとも思う。)

わけのわからないつまらない記事ですみません ^^;
どうもうまくまとまりませんが、今思っていることを書いてみました。