風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

仕事と生き甲斐

会社で先輩に「もうちょっと息を抜きながら働かないと死ぬぞ」と言われてしまった。
あちこちで「疲れた顔をしている」だの「体を壊しても誰も褒めてくれないよ」などと
言われる。
確かにそうだ。
もしも病気などしたら、職場にも家庭にも迷惑をかけることになる。

去年、出張で飛行機に50回目に搭乗したのは12月だったけど、今年は昨日の時点で
49回。昨年よりも2割、出張回数が増えている。
疲れても不思議ない、とは思う。
それにともなって、今年は胃の調子が悪くなって食べられなくなったり、体のあちこち
の痛みがひかなかったり、ずいぶんガタがきているのがわかる。
今日はとうとう週一回のアスレチックジム通いをさぼってしまった。
運動しつづけないと体力が落ちてますます疲れやすくなるのもわかっているのだけど、
体がどうにも動かないのだ。

疲れると本も読めなくなるのが悲しい。
難しい本を読んでいると頭がついていかないのだ ^^;
それにいろいろなことも考えることもできなくなる。
悲しいことだと思う。

確かこういうことについてシモーヌ・ヴェイユが何か言っていたはずだ。
うんうん唸って、やっとのことで思い出せた。
知識人としての自分を認めず、哲学教師の職を辞して女工として工場に入った
ヴェイユの「工場日記」より。

【引用始まり】 ---
ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのか
という本当の理由をつい忘れてしまうことがある。
こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんど
うちかつことができないようになった。
それは、もはや考えることをしないという誘惑である。
それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。
ただ土曜日の午後と日曜日にだけ、わたしにも思い出や、思考の断片がもど
ってくる。このわたしもまた、考える存在であったことを思い出す。
【引用終わり】 ---

そして、こんな言葉もあった。
【引用始まり】 ---
「奴隷のように働いた」
「次にどんなことが起こるのだろうか、というおそれ、−恐怖−のために心を
 しめつけられ」
服従よりもさらにすすんで、何ごともあきらめて受け入れるようになっていた」
【引用終わり】 ---

僕の労働はヴェイユほど強制されているものではないけれども、結果的にヴェイユ
と似たような状況におかれていることは否定できないかもしれない。
仕事を生き甲斐であり、そこでの刻苦努力は人間を磨くものであり、社会貢献でも
あり、職場は人生道場である、という生き甲斐論、仕事論を決して僕は否定する
ものではない。その中の良質なものには論理整合性もあり、非常に納得できるもの
だって存在する。
そういったものに全面的に依拠し、心酔して生きるほうが仕事が成功に繋がる
可能性も断然高く、本人も幸せに楽しくポジティブに生きられるだろう。

しかしながら、一方で、そのような生き甲斐論、仕事論に両足を置く生き方は
僕には「人間として考えることをやめる」ことであるようにも思えるのだ。
義務と責任、やり甲斐を「ある枠の中」で感じて精一杯の努力を惜しまないこと
は立派なことだけれども、「枠の外」について考え思考を巡らせることは、僕と
いう人間にはどうしても必要なことらしい。

僕は今の仕事は嫌いではないし、やり甲斐も感じているし面白くもある。
しかし、どうしても仕事100%思考の人間にだけはなりたくない。
それは、人間を止めることだ、と僕には思える。