風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

無記(善でも悪でもないもの)

今夕、君を乗せた大きな鳥はアフリカの大地に向かった。
僕は出張先で空を見上げる。
今頃、雲の上なのだろうな、と。
10日間でジンバブエ南アフリカをめぐる旅。
君はいったい何を見て何を感じてくるのだろう?
そして、日本にいる僕は君のいない10日間、何を感じるのだろう?

さて、君の出発とは関係なく、僕はといえば今週は仕事ではうまくないことが立て
続けに起こり、どうもメンタルもフィジカルも元気が出ないのだ。
多分に暑さで参っていることもあると思うけれど。
でも、自分でもわかっている。
今は一時的にへこんで元気が出なくても、そのうち元気が戻ってくることも。
生きて経験する、ということは貴重なものだ、と思う。

仏教用語に「無記」という言葉がある。
西欧の善悪二元論ではなく、仏教では「三性の理」と言って物事を「善・無記・悪」
に分類する。
この「無記」とは”善でも悪でもないもの”のことだ。
そして人間が善でも悪でもない「無記」を、悪い方に使ったり、善いほうに使った
りする。

たとえば「自動車」は悪く使えば”走る凶器”になり、善く使えば”救急車(人の
命を救う)”になる。
「正義感」を悪く使えば”戦争”になり、善く使えば”平和”になる。
「優しさ」だって悪く使えば”人を陥れる道具”になるし、善く使えば”人の心を
救う”になる。
悪いことに使えるから、という理由で、自動車が、正義感が、優しさが悪である、
規制せよ、なんてことはばかげている。同様に、正義感や優しさがいつもいつも
善であるというのも愚かな考えだ。地雷や核爆弾のように明らかに善に使えない
ものは別として、これら「無記」そのものは、善くも悪くもないのだから。
「無記」については「善いも悪いも人間の使い方と解釈次第」というこの考え方は
とても大切だと思う。

そう考えてみると、僕の”元気が出ない(憂鬱感)”だって無記だと思うのだ。
悪く取れば「自分は駄目だ、根性が出ないなんて情けない」と焦ることになるの
だろうが、善く取れば「心が”休みなさい”と信号を出してくれているんだ」
とも解釈できる。
僕は、最近はもっぱらそういう風に解釈するようにしている。
少しペースを落として停滞していると、必ず自然に元気が出てくるものだ、と
わかっているから。

さらに言えば、仕事がうまくいかないことだって考え方次第だと思う。
「天が僕に勉強と成長の機会を与えてくれている」とも取れる。
神様が「工夫が足りないよ。もっとできるはずだよ」と言っているようにも思う。

物事を急いで色づけせず、あるがままに観て受け止めること。
そして解釈にあたっては慎重にすること。
今はちょっと元気がないから、特に自分の心に繰り返し銘記するようにしよう。