風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

吉野の旅

思い立って吉野に行くことにした。
「思い立って何かをする」こと自体、今の僕にはそうそう許されることではない
のだが、これはささやかな我が儘、と言っていいだろう ^^
桜の季節でもないのに、なぜ吉野?と思われるだろうか。

大学時代、大峰山系に調査に入ったことがある。
真夏、無名の小さなピークの頂上を目指して沢を登っていった。
むせかえるような緑の匂いの中、やっと頂上に到着したときに見たあの風景。
緑なす山々が、幾重にも、どこまでも、つづいていた。
そして、真夏の空の色。
あの記憶が蘇る。

阿倍野駅で特急に乗る。
南大阪の平地を電車は疾走する。
晴天
焼け付く日射し
ペットボトルを通った日光が窓枠の上に集まる。

ロープウェー降りて山上をゆっくり歩く。
面白い形の日よけが道路にせり出している。
白い布を広げたもの。
僕はこういう日よけ(アーケード?)は初めて見た。

金峯山寺蔵王堂の風格に圧倒される。
柱一本一本に迫力と重さがある。
ここで家族に安全のお守りを買う。

葛うどんを昼食にいただく。
みょうがの香りに、ふと涼しさを感じる。
風鈴の音、みょうがの香り、生姜の味、、こういったクオリア(質感)が
人にもたらすものの不思議。
あけはなされた窓から入る風が心地よい。

山上を散策して日帰り入湯料を払って露天風呂へ。
誰もいない露天風呂を、僕が独り占め。
聞こえてくるのは、風のわたる音とツクツクボーシの鳴き声だけ。

人は普段の生活ではノイズにまみれている。
他人と一緒にいる時は、相手と自分の事に心が集中する。
こうした環境音しか聞こえない所に来ると、自分の意識がノイズから解放され
脳から彷徨い出るように感じる。
ジョン・ケージが「4分33秒」で試みたことは、これなのだろうか。

一人になることは、僕と世界の間に「水路」を開くことだ。
誰もいない世界に向かって心を開くことで、世界のそのままのありようを脳で
クオリアとして味わう。
世界は僕から離れた固定的で無縁なものではなくなり、親しみがあるけれども
可塑性もある何かに変化するように思える。
僕自身が世界(自然)の一部であること。
「水路」を通しての世界との対話で、未来は固定的でなく、偶然性と不可思議さ
と可能性に満ちあふれたものであることに改めて気づく。

吉野の空はあくまで青い。
あの夏空の色だった。

# 「Photo Album」に掲載できなかった写真をアップしてゆきます。
  宜しければご覧下さい ^^