風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

言葉の力

言葉にはひとを感激させ、ひとを生かし、ひとを勇気づける力がある。
反面、ひとを傷つけ、ひとを殺し、ひとを悲嘆にくれさせる力もある。
それでも、僕は言葉の力を過信してはならない、と思う。

言葉を重ねれば重ねるほどに、事実から遠ざかってしまうことがある。
ある自分の行動を「こうだったから」「ああ思ったから」と後から言葉で詳細
に説明するとしよう。その時の「こう」や「ああ」は頭に浮かんだ考えの中で
「一番相手も自分も納得しやすい”思いつき”」にすぎないことが多い。
そしてその「こう」や「ああ」を、自分で納得して言葉ですくい取った瞬間、
そのほかの構成物はざるで水を掬ったようにこぼれ落ちてしまう。
元々の行動を構成していたにもかかわらずこぼれ落ちたそれらは「説明される
可能性」を失い闇の中に消えてゆく。

自分の気持ちや行動を、後から言葉で説明しすぎるのは危険だ。
明晰に、論理的に、語れば語るほど実態から離れてゆく。
ならば、語らないほうがいい。
相手に察してもらうほうが、いい。

僕はある時から「自分がこうしたのは、実はこう思ったからだ」とか「こういう
意図があったことを理解して欲しい」といった事を、後から人に説明するのは
止めにした。はっきりした意図がある時は先に「こういう意図があるから」
と前もって伝えることにしたのだ。
説明しないことによって誤解されることもあるが、それは仕方ない。
自らの脳内で作り出した本当のような「言い訳」をまことしやかに説明するより
はずっといいだろう、と思う。
コミュニケーションで重要なのは「自分の意図」ではなく、結果としての「相手
による”受け取られ”」である、ということ。
その厳しい現実を肝に銘じ、正面から向き合って生きてゆきたいのだ。
わかる人にはわかるはずだ、と僕は思っているから。

ネットでのコミュニケーションはとてもスリリングだ。
言葉というツールだけを使ったコミュニケーション。
だからこそ、言葉の力を信じすぎないようにしないといけないのだ。
だからこそ、言葉を受け取ることに対して警戒的でなくてはならない。
そうやって、読者として一つのブログを長い間読んでいると「書き手」の人
となりが感じられるようになってくる。
書き手が「こういう理由でこうした」と書いていても、直感的に「これは自分で
そう信じよう、としておられるだけだ」と気づくこともある。
一方的にせよそういうことが感じられるようになって初めて、僕には書き手が
とても身近に感じられ親しみが持てる。その「言葉」を受け止めるのではなく、
その書き手の「人間総体」が信じられるようになる。

そういう意味で重要なのは「言葉からこぼれ落ちたもの」ではないだろうか。
記事の内容の明晰さや論理性に感銘を受けることもあるけれども、書き手の人間
そのものを考えるとき、読み続けるうちブログからにじみ出るように感じられる
「何か」こそ、僕には信じられるものに思えるのだ。

ブログ総体からそこはかとなく立ちのぼる「何か」。
僕にとってはそれが書き手本人を表す何より大切なものに感じられる。