風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ネットの交友、リアルの交友

ネットでの交友とリアルでの交友について考えてみたい。
「同じ」という人もいれば「いや、違いがある」と言う人もいる。
僕自身の意見は実のところ後者なのだが ^^;、どうしてそう思うのか、自分の
思考の整理の意味も込めて書いてみたい。ここでいう「ネットの交友」とは
「リアルで顔を合わせたりせず、メールやブログやBBS等だけでのつきあい」
という意味だ。

ネットでの交友の一つの特徴として、知り合って間もなくてもネットでは比較的
本音を話しやすい、ということがある。これはいったい何故だろう?
僕はこれはネットの持つ「匿名性」すなわち「自分のリアルの素顔・素性を知ら
れていない」ことと密接に関わっていると思う。

人は社会生活でそれぞれの社会的役割を果たしている。
家族・親族などでは、夫、妻、父、母、子供、孫などの役割を、会社では、社員、
管理職、経営者、友人仲間ならリーダー、バイプレーヤー、便利屋、ピエロ、
などそれぞれの役割がなんとなく決まっている。

こういったリアル世界の中では、誰それさんがこういうことを言った、とかこう
いう考えを持っている、ということは本人の実社会での素顔にプラス・オンの形
で情報として付加され今後もついて回ることになる。
素顔が見える世界では、人の言動は収入の多寡に影響を与えたり、社会的立場を
危うくしたり、他者からの協力の可否を左右したりする。

だからこそリアル社会では人は自己防衛をしながら言動を行う。
逆に言えば、自己防衛の必要がないところでは人は大胆になりうる。
電車の床に座り込む学生たちは、自分の「リアル世界」と切り離されているが
故に(彼らにとっては関係ない車内の他人たちは彼らの「リアル」ではない)
座り込めるのであり、逆に彼ら自身がリアルと認める「仲間づきあい」において
は「一緒に座らないと逆につきあいが悪いと思われ自分は『人望』を失うの
では?」と心配したりしているのだ。

ネットの世界は基本的に氏素性がはっきりしていないが故に、責任やリスクも
少ない。某巨大掲示板での人々の言動を見ていればそれは明らかだ。
「匿名の恥は掻き捨て」と好き放題お下劣な言動をできるのは、「自分は車内
の他人とは何も関係ない」と電車の中で座り込む若者の行動や、他国に行ったら
恥は掻き捨てとばかり集団で買春をする団体旅行客と何の違いもない。
ネットでは本人の素顔が晒されず言動の担保にされていないが故に、好き放題
になりやすいことが本質的土壌としてある。

悪い例ばかり挙げたが、もちろんそうでない面も多々ある。
お互いの間に何の制約もないが故に、本音や普段は恥ずかしくて言えない正論
を語ることもできるのだから。しかし、良いにせよ悪いにせよ「リアルの自分
を担保にしていないが故の軽さ」がどこかについて回ると僕は感じるのだ。

それは僕自身がここに書いていることも同じだ。
いくら偉そうにあれこれ書いていてもそれは全部口先で、実際の僕は小心翼々
と保身だけを考えて日々を汲々と生きている卑怯者かもしれない。
素性を晒していない僕は、残念ながら自分がそうでない証拠を提示できない。

僕が書いていることはネットの交友は駄目だ、とか意味がないと言っている
のではない。ただ「リアルとは違う状況が存在する」と言っているのだ。
実際、ネットで知り合った北海道の人が沖縄の人と会って話すことは困難
だろうし、そうでなくて同じ街に住んでいても生活のリズムや形態が違えば
顔を会わせることが不可能なことだってある。
そういう不可能を可能にしてくれるのはネットの大きな利点なのだ。
さらに踏み込んで言えば、たとえ顔を会わせていても実は「リアルな自分を
担保にしていない交友」だって多々存在する。そう考えるとどちらが勝って
いてどちらが劣っているなどと一概に言うことはできない。

僕はネットが好きだ。
ネットで、このブログで知り合った人たちは大切な友人だと思っている。
そして、僕はリアルの友人にもネットの友人にも、同じように接しようと
努力しているつもりではある。
しかし、悲しいけれど「リアルと同じ」と言い切ることはできない。

なぜなら僕は素顔の自分を皆さんとの交友の担保に差し出していないから。
左手を背後に隠したまま、右手を握手に差し出しているのだから。