風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

カラマーゾフの兄弟

読書のペースががたっと落ちた。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の再読にかかってしまったからだ。
「ブッデンブローク」なら1000ページを一週間で読むことが可能だけれど
カラマーゾフ」は再読というのに3日で100ページがやっと。
読んでは考え、考えてはまた読む、の繰り返しだから、どうしてもそうなって
しまうのだ。
今やっと中巻の半ば。
この調子で全三巻2000ページだから時間がかかる。

カート・ヴォネガットの小説「スローターハウス5(屠殺場5号)」にこういう
一節がある。

【引用始まり】 ---
人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマ
ーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。
そしてこうつけ加えた。
「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」
【引用終わり】 ---

カラマーゾフ」が書かれたのは19世紀の終わり(1880年)。
フロイトユングによって無意識領域が脚光を浴びるのはまだ先。
ニーチェによって「神の死」が宣告されるのもまだ先。
カラマーゾフ」が書かれた時代はまだ人間が意識的な存在であり、自我という
ものが自己と離れたものとはっきりとは認識されていなかった時代だ。

確かに「それだけじゃ足りない」とも思う。
だからこそ、カート・ヴォネガットも、自らの悲惨な戦争体験と広島以上の惨禍
と言われるドレスデン空襲を「荒唐無稽なハチャメチャ小説」という形で書かず
にはいられなかった。
(他には彼の絶望を伝える手段がなかった!)
それでも僕は思うのだ。
カラマーゾフ」には人生の苦悩の9割が含まれている、と。

この小説は、クラシック音楽で言えばベートーヴェン交響曲第九番やバッハの
ミサ曲ロ短調あるいはマタイ受難曲に相当する存在だ。
人が生きることの苦悩と喜びのおよそ全てを包括する大伽藍。
人間の情欲、理性、情熱、信仰についてのあらゆる議論と主張と希望と絶望が
ごった煮になっている比類なく巨大な唯一無二の作品。
ドストエフスキーでは「罪と罰」のほうが知られているけれど、僕は「カラマー
ゾフ」こそが断然代表作だと思う。
それだけに読み通すのは楽ではない。
何回読んだって、ちっとも楽じゃないのだ!

以前、村上春樹と読者の間でこんなやりとりがあった。
読者の「オウム真理教に入るような人達も『カラマーゾフの兄弟』を一度読んで
みたらいいのに」という意見に対し、村上は確かこんな風に答えていた。
「『カラマーゾフ』を読み通せる人の数は極めて限られている。
一度でも読めば確かにオウムに入ろうとする人たちの大部分を阻止することは
できるだろうけれど、とにかく『カラマーゾフ』は難しすぎるし長すぎる。
自分がいつか成し遂げたいと思っていることは、もっとやさしくて読みやすい
現代の『カラマーゾフ』を書くことだ。
それは途方もなく難しいのだが」と。

カラマーゾフ」について包括的に何かを書く、などということは到底僕の能力
にはおよばないことだけれど部分部分についてでも「書きたい」という誘惑は
強い。核心と言われる章「大審問官」については無理だけれど、例えば上巻
冒頭の長老ゾシマの民衆とのほんの数行のやりとりの中にも書きたくなるような
言葉がいかに沢山あることか!
この本は中年以降の人間こそが読むべき本だと思う。
ぐさりぐさりと心に突き刺さってくる言葉が詰まっている。

いつかこの偉大で巨大な作品のほんの隅っこについてでも書いてみたい。
「群盲、像を撫でる」にすぎないかもしれないけれど、そう思っている。

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

(読もうと思われる方にはこの新潮文庫版をお薦めします。
 岩波文庫版はさらに難しく読みにくいです ^^;)