風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

『無責任な議論の一般化』について

寝太郎さんのブログ「うたたねの記」のエントリ「まなざしと美醜〜「醜い」女子高生に思う〜 」「例の「女子高生」問題について再び 」を読んでいろいろと考えた。
このエントリでは寝太郎さんが整理・提起された問題の一つについて僕の考え
を述べたい。

寝太郎さんが提起された問題の一つに『無責任な議論の一般化』がある。
電車の車内で座り込み足を投げ出す女子高生を見て、ただレッテルを貼り、心の中
で冷笑し、自らとは無関係なモノとして「一般化」して嘆き論ずるだけで実際には
何一つ関わりを持たない態度。寝太郎さんの表現を引用させて頂くと、
【引用始まり】 ---
そういった一般化により物事は客観的かつきわめて抽象的な問題となってしまい、
そこで問題の直接性、具体性が失われる。文字通り目の前で何が起こっていよう
が、自分は直接リスクを犯さず、ただ嘆き、また批判するだけで良心を満足させ
られるような状況がうまれる。自分は安全圏にいながら、あたかも世の中の正義
のために一役買っているような安心感を得られる。
【引用終わり】 ---

確かにそういうことは、ある。
しかし、ごく率直に言ってしまえばそれは「女子高生の問題」に限らない。
ある人にとっては「死刑廃止問題」がそうかもしれないし、ある人にとっては
「アフリカ飢餓問題」もそうかもしれない。
では「脳死判定問題」は?
では「増え続ける自殺者問題」は?
ひとつひとつそう問いつめられると、全てについてこれは自分の問題として
身を切る思いで日々考え行動している、と胸を張るのは多くの人にとっては
難しいことだろう。
少なくとも、僕には無理だ。

それでいい、とは思えないけれど、それは「やむを得ない」とは不承不承思う。
人間とは、残念ながらそんなに立派な存在ではないらしい。
我々にとっては直接関係ない他人は所詮遠い存在なのだ。
勢古浩爾が『「自分の力」を信じる思想』でこう書いているのだが、僕は確かに、
と渋々認めざるを得ない。

【引用始まり】 ---
わたしたちは自分にとって「どうでもよくないこと」だけの世界で生きていければ
それだけで十分なはずである。逆にいうなら「自分だけの生活」だけが真に切実
なのであって、それ以外の「どうでもよくはないが、どうしようもない」世界
や、ほんとうに「どうでもいい」世界を生きることなどできはしないのだ。
(中略)
だいたい無縁の他人が死んでも痛くも痒くもないのだ。どうでもよくはないが
どうしようもないではないか。だとするなら、他人の失業や援助交際や日本の
侵略やHIV患者や差別や基地問題ダイオキシンタリバンやEU統合や
児童虐待や教科書問題がいったいなんだというのか。
興味はあるが関心はないのだ。なくはないが、身を切られるような切実な
関心はないのだ。目や耳や口はつっこむが指一本動かす気はないのだ。
【引用終わり】 ---

では、我々はこのような身も蓋もない言葉の前にひれ伏して、何が外界であっても
「私には関係ございません」と生きるしかないのだろうか?
面白いことに吉本隆明は、このような「身の回りだけの関心で自然に生き、結婚
して子を産み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬのが、一番価値
ある生き方だ」といいつつも、その一方で「人間は決してそのようには生きられ
ない(不可避性)」と言う。

そうなのだ。
引用した勢古の断言そのものが「いらだち」を含んでいることからも分かる通り、
我々は「他人事だから関係ねー」と100%思うこともできない。
電車の床に座る女子高生を見たとき「なんという嘆かわしい。世も末だ」とか
「だいたい最近の家庭のしつけはなってない!」というふうに憤り不満を感じる
人もあるだろうし、とりあえず”無関心”ということにして慌てて意識から排除
しようとする人もいれば、中には「うちの娘も同じぐらいの年頃だ。思い切って
注意してあげようか」と迷う人もいるだろう。
そのどれもが河原の石ころを眺めるような「本当の無関心」ではないのだ。

僕は希望を見出すとしたらそこにしかない、という気がする。
誰もが一足飛びに電車の床に座る「醜い女子高生」に愛の視線を送るのは難しい。
ただ、寝太郎さんが僕へのレスに書いて下さった通り「愛の反対語は憎しみで
はなく無関心」なのだ。たとえ怒りであれ、呆れであれ、同情であれ、どういう
形にせよ関心を持つことは問題を自分の中に「関係」として内在化させる可能性
の第一歩であることは間違いない。

僕たちは全ての問題を「自分にとっての深い関係」と捉えることはできない。
「関係」と捉えられるような「問題」は多くの場合、向こうのほうからやって
くるのだ。
それは両親の介護という局面での「老人介護」かもしれないし、身内の事故と
いう局面からの「脳死移植」かもしれない。同様にある人にとってはそれは
「自分が同じ年頃の娘を持っている」という局面からの「女子高生」なのかも
しれない。その個別の「関係」が自分にやってきたとき、誠心誠意向き合って
真摯に考え自分のできる限り行動を起こすこと。
それが普通の人間にできる範囲ではないか、と思うのだ。

「関係」として切実に内在化できない「問題」については、せいぜいは「自分
が相手の立場にも身を置いてみて(想像して)精一杯考えてみる」のがいい
ところだろう。それは多くの場合、勢古が言う「目や耳や口はつっこむが
指一本動かす気はない」程度にしか至るまい。
だが、それが、普通の人間の限界だと思う。
「無関心」よりは、その情けない限界を肝に銘じた上で頭と口だけでも動かす
ほうが、まだ少しはマシだろう。
「とても寂しく残念ですが」と前置きをつけた上で、僕はそう思うのだ。