風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

邪推の総合商社

同僚に僕が(心の中で ^^;)「邪推の総合商社」とあだ名をつけている人がいる。
この人は僕に限らず人の言うことをまずもって疑ってかかる。
「本当かなぁ?実は○○じゃないのー?」
「そうかなぁ〜。裏があるんじゃないのー?」
が彼の口癖だ。

彼との会話はとても気を使う。
こちらが何気なく言った一言一言に引っかかって
「え、それ、本当はこうして欲しいってこと?」
「つまり遠回しに俺には来るな、って言ってるワケ?」
などと言う。人はみんな自分と同じぐらい「裏」を持っていて、罠にかけよう
とする、と信じているようなのだ。
、、、、疲れる。
こんなに人の言葉の裏読みをして、邪推ばかりしていて疲れないのだろうか。
どうしてそんなに人の言うことを疑うのだろう?

彼は結構なトラブルメーカーで、自分の猜疑心に振り回されたあげくあれこれ
画策をして回り、それがまずい方向に進んでは大慌てで火を消し回ったりして
いる。「マッチポンプ」とはこのことだ。
彼を見ていて僕は映画『地獄の黙示録』に出てくる米兵の行動を想起した。

いつゲリラが襲ってくるかわからない川を米兵たちが遡航している。
そして一艘のみずぼらしい船に行き合う。
極度の緊張の中で米兵たちは船のベトナム人一家に銃を向け臨検しようとするが
言葉が通じずうまくいかない。そのとき船の隅のかごで、がさがさ、という音が
する。緊張の極にあった米兵達は一斉に発砲してしまう。
ところが、かごの中に隠されていたのは一匹の子犬だったのだ。
米兵達は大慌てで医療品を取り出し手当をしようとするが、一家は皆すでに
死んでいる

恐怖は猜疑心のコントロール不能にする。。
米兵の場合は「俺達が殺られるんじゃないか」という恐怖だが、僕の同僚の
場合は「自分が傷つけられるんじゃないか」という恐怖だ。
自分が傷つけられるのが怖いから、常に言葉の裏を勘ぐり、先読みをし、
最悪の事態に備えようとする。まったくメカニズムは同じだ。

他人を誰も信用することができない。
こんな哀しいことがあるだろうか?
恐怖を克服するもの、それは他者を信じる「勇気」なのだ。
ではその勇気はどうしたら出るのだろう?
僕は「自信」が人を信じる勇気を生み出すと思っている。
ではその「自信」とは、どんな「自信」なのか?
それは「自分は愛され、受け入れられているという自信」だ。
人は他者から十分愛されない限り「自信」を持つことはできない。

そうするとこれは「卵とニワトリ」の話になってくる。
「本当の愛」を存分に受けないと、他者を信じることはできない。
しかし、人を信じない限り「本当の愛」は絶対に手に入らないのだ。
なんと皮肉なことだろう。

かくして愛の亡者は永遠に愛を求めてさまよい、愛の富者の元には
さらに愛が集中することになる。
これは『愛の南北格差問題』と呼んでもいいのではないのだろうか。