風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

こうのとり、たちずさんで

数年前、ドイツとベルギーとオランダの三国の国境が交わる点を訪れたこと
がある。そこは山の上の公園で、三カ国の旗が立っていた。
女性が犬を連れて散歩しているどこにでもあるヨーロッパの公園の風景。
僕は、その旗の周りをゆっくりと回ってみたた。
ここはベルギー、ここはオランダ、ここはドイツ、と思いながら。
しかし、僕はそこでは「国境」を実感できなかった。

テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」は国境を描いた映画、
と言われている。
確かにそれは間違いないだろう。
難民の男女の国境の川を距てた無言の結婚式のシーン。
主人公が橋の上の国境線の手前で片足をあげて「たちずさむ」姿。
なんとも言えない疲弊してどんよりした国境の町、そこで起こる難民同士の
絶望的な諍い。
「国境は人を狂わせる」というギリシャ軍大佐の言葉。

しかし、僕が本当の意味での「国境」を感じたことがなかったからだろうか、
僕はこの映画を見ながら違うことを考えていた。

強制的に人と人の間を遮り切り離す存在として「国境」があり、それは別離の
悲劇を生む。しかし、そうでなくても人と人との間には越えがたい一線が存在
する。ある場合は最初から「国境」があるかのようであり、別の場合は一度は
自由な往来が出来ていたのに「国境線」が引かれたように往来が途絶えること
もある。まるで越えがたい「心の国境線」が立ち上がったかのように。

この映画には、一人の謎の男が登場する。
国境の街の取材に出かけた主人公(TVディレクター)が見かけたアルバニア
からの難民らしい男(マルチェロ・マストロヤンニ)。
その男は失踪したギリシャの大物政治家にそっくりなのだ。
主人公はその男を追いかけ、離婚した元妻(ジャンヌ・モロー)に会う。

この政治家は意味不明の留守電を残して急に妻の前から失踪したのだ。
40日後に一旦戻ってきた男はもう「別人」になっている。
同じ人物なのに、もう心は通い合わない。
そしてその男は再び妻の前から失踪してしまう。

国境の難民の町で主人公は妻と男を引き会わせるが、彼女は「It's not him
(彼じゃない)」と言いきる。
さて、真実はどうだったのだろう?
本当に「彼」ではなかったのか?
それとももはや彼女の知っている「彼」ではなかったのか?
自分との間に「国境」が出来てしまった彼はもはや「彼」ではなかったのか?
翌日、その男は自分の「娘(?)」の国境を挟んだ結婚式の後、再びその難民
の町からも失踪してしまう。

主人公と謎の男の「娘」の激しく、しかしつかの間の儚い恋。
二人はホテルのダンスパーティで目と目を見つめ合って激しく惹かれあい、
一夜を共にする(このシーン、二人は全く無言で視線を合わせたまま、一歩ずつ
階段を上り部屋の中に消えて行く。激しくエロティックなシーンだ)。
それでも、二人の間にある物理的な障壁とともに、越えがたい心の壁が物語
から立ち上がってくる。

恋しているから、愛しているから「心の国境」がないとは限らない。
いや、かえってそうであればあるほど「心の国境」は絶望的に感じられる。
国境の川を挟んだ結婚式のシーンは難民たちの国境の悲劇と同時に、この
「心の国境線」の悲劇を描いているのではないだろうか。
この映画ではそれを乗り越えてゆく希望は提示されていない。
人々は皆、何もできずにただ「たちずさむ」のだ。

流れ続ける寒々しくも美しく印象的な北ギリシャの映像を見ながら、僕は
そんなことをひたすら考え続けていた。