ねむれ巴里
金子光晴の「ねむれ巴里」を読んだ。
たいへん面白かったけれど、最終的に著者は僕とは違う種類の人だなぁということばかり頭に残った一冊だった。
これは金子光晴の自伝の一部であり、妻・森三千代とともに極貧・困窮の極みの中でのたうち回っていた1920年代終わりのパリでの2年間を綴ったものだ。金子は露悪趣味と呼んでさしつかえないほど、自らの素行(恐喝まがいをしたり、金の無心をしたり、借金を踏み倒したり、妻を他の男に売り飛ばそうとしたり)を赤裸々に書き、パリとフランス人、そしてそこに暮らす日本人のの暗部、恥部をえぐり出す。それと同時にその腐臭漂う生活から立ちのぼる饐えた匂いに酔ったようになり、身動きがとれなくなって、その中に自分たちがどろどろに溶けこんでゆく様子が描かれているのだ。
ある日、妻の三千代に欧州の田舎を回る旅芸人一座から声がかかる。
男の舞踊家と組んで一緒に日本舞踊をしてくれたら金になる、という話だ。
その話を持ちかけられた場面についての金子の述懐がこちらだ。
【引用始まり】 ---
ただヨーロッパの常識として、男と女が組むということは、夫婦になることだ。契約ができてのりこんでゆく先では、部屋を二つとるなんて贅沢な真似はできない。二人ならば、ベッドは一つ、時には、三人、四人一緒で一部屋を、というわけで、その時どう文句を言ってもはじまらないということであった。その通り彼女に話すと、彼女も尻込みをした。そんなことになると彼女はまだ未通女(おぼこ)とおなじで、男と女の契約(誓い)など、生きる、死ぬの生活の、黄金万能の鉄則の前では、みじんに砕けて当たり前なことだという幸いこの街の底辺の寒気立つようなものの考え方には、まだ程遠く、苦難とおもえたこれまでの旅も、落ちつくはてのパリの冷寒地獄にくらぶれば、甘えとたのしい旅の好味ののこり香のさめない、恥のかき棄ての笑い声もまじる金蛙道中のほがらかさがあった。(中略)
それはゆきずりに観光客にはわからないことではあるが、花のパリは、腐臭芬々とした性器の累積を肥料として咲いている、紅霞のなかの徒花にすぎない。
【引用終わり】 ---
この後さらに金子はどんどん感覚が麻痺し、友人にそそのかされて最終的に妻をアントワープの日本人顔役に売り飛ばすようなことになる。
このように全編を通じて、この書にあふれているのは自分自身と周囲の世界の卑劣さ、汚さ、醜さについての赤裸々な告白であり、どこにも救いのようなものはない。そこには、一遍の矜持もなく、ただただ悲惨さと惨めさ、食うに困ると人間はここまで落ちる、という例がえんえんと挙げられている。
読んで僕はこう思った。
例えば、恋愛にしても、セックスと赤裸々な欲望という断面で切って語るのと、精神的な想いだとか心という断面で切って語るのでは、実際にそこで「やっていること」は同じでも語られたものは違ったものになる。ある人が「どちらの立場をとって語るか」ということは、実はその人の「恋愛」というものに対する「信仰告白」に他ならない。
同様に、金子のこの書も金子自身の「人生」についての「信仰告白」だと言って差し支えないだろう。
それはそれとして、僕は自分が金子と同じようになったらどうだろう、と考えてみた。
僕ならば、おそらく金子のような破綻した生活は送らないだろう。
彼のように破滅的な中で自堕落に過ごすのではなく、必死で食い扶持を稼げる安定した職を捜し、ほそぼそと、しかしまっとうに地道に生きるのではないだろうか。
恐らく、金子は破滅型の人間で、僕はそうではない。
恐らく、金子は右脳型の人間で、僕は左脳型だ。
この本だけを読むと金子光晴という人は、鋭くて頭はいいのにも関わらず、その感情と行動のほとんどを右脳に支配されっぱなしで、意志力でそれらを統御できない人のように感じられる。
だからどうしても強い違和感を感じてしまう。
当たり前の話だが、左脳型の人間が偉いわけではなく優れているわけでもない。
だいたい左脳型人間は人間全体の中で数としては少ないほうだろう。
ただ僕の中に残る「こういう人は、わからない」という感覚だけはどうしようもない。
僕が絶望を感じるとすれば、それは金子のような生活であったり、世の右脳型の人々の行動に対してではなく、僕自身のこの「わからない」という感覚に対してだ。
人間というのは「そういうもの」。
そう正直に理解するしかないのだろうか。
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