記憶、そして幻の情景
「ね、あの時、私がどんな服を着てたか覚えてる?一緒に何を食べたかは?」
いつも君は細かくあれこれと僕にたずねる。
「んー、ごめん。全然覚えてない。なんにも覚えてないよ」
君は大きな目をさらに見開いて、呆れた様子で僕を睨む。
「ほーんとに、何も覚えてない人ね。良かったことも悪かったことも。
そんなに忘れられるって幸せね、きっと。」
本当に僕は何でも忘れてしまう。
面白かったことも、楽しかったことも、悲しかったことも、辛かったことも。
でも、ずっと覚えていることもあるのです。
例えば、手袋のこと。
何年も前にプレゼントしてもらったあの皮の手袋。
君は面白いひとで、仕事でむしゃくしゃすると僕にプレゼントを買ってくれる
のだ。この手袋もそんな君の「むしゃくしゃ」の産物だったんだけど、僕の
手にぴったりでとても気に入っていた。
何の変哲もない黒革の手袋。
ある日、コートのポケットに入れたはずの手袋の片方がないことに気づいた。
心当たりをあちこち探したけれど見つからない。
僕には、手袋の泣き声がきこえる気がした。
冬の路上の暗闇の中、知らない人たちに踏みつけられている手袋。
想像するとひどく悲しくなった。
結局、その手袋は出てこなかった。
このことを僕は冬がくるたびに思い出す。
記憶力のいい君がもうすっかり忘れてしまっているというのに。
* * * * * * * * * * * * * * *
夏がくるたびに、想像の中に現れる情景。
そんな場面は一度もなかったのに、細部まで恐ろしく鮮明だ。
場所はどこかの海の家だろうか、二階の和室の大きな窓の外には葦簀(よしず)
が立てかけてあって、それを通して夏の夕日が畳の上に細かく散っている。
その人は、薄いクリーム色に白っぽい細かい花柄を散らしたワンピースを着て
畳の上に座り、窓のほうを見ている。
少し傾げたその顔は、物憂げで悲しそうだ。
その様子に僕はとても寂しくなる。
その人はいつか笑顔になってくれるのでしょうか。
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