風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ポジショントークは正しくないか

もう10年以上前だろうか、僕はある自動車メーカーの工場の人と打ち合わせをしていた。

その人は五十過ぎだっただろうか、打ち合わせ後の雑談の中で、

「とにかくねぇ、合理化しないといけないんですよ。人を減らさなきゃ」

と盛んに言っていた。僕は変な気がしたが黙っていた。

『だって、工場の合理化をして人を減らす、ってあなたが職を失うかもしれなんですよ。 それでもいいんですか?』

これが僕の頭にそのとき浮かんだ疑問だった。

そして次の年、僕が同じ部署に立ち寄った時、その人はもう会社にいなかった。

彼は『合理化』された、とのことだった。



なるほど、彼の言っていたことは当時そのメーカーの経営陣が新聞でも盛んに訴え、ご用組合も従業員に(やむなくというポーズを見せつつ)協力を要請していた当時の「正論」だった。それでもなおかつ、僕にはどうしても違和感は拭えなかった。

どうして、彼が彼の立場でそのご立派な「正論」を支持するのだろうか?と。



なるほど、彼が彼の立場で「合理化反対」と言ったとしたら、見方によれば「ポジショントーク(己の立場を擁護するための言論)」だという譏りは免れないだろう。

それでは、会社でリストラされる人は「経営者の視点に立って黙って痛みを受け入れ」、障害者自立支援法で一方的に負担増を強いられる人達は「国民全体のことを考えて黙って痛みを耐え」、先進国の吐き出す二酸化炭素による温暖化で国が水没しかけているツバルの人達は「先進国国民の生活水準を維持する為に黙って痛みに耐える」必要があるのだろうか?

・・・馬鹿馬鹿しい。



ポジショントークがいけないこととは僕には思えない。

民主主義の基本は「弱者・少数派からのポジショントーク」を尊重し議論を尽くすことにある。強者にとって一番イージーな事、すなわち「弱者に痛みを負担するように求める」時ほど、その「痛みの種類と量」が正当で本当にやむを得ないものかどうかを徹底的に議論し尽くさなければならないはずなのだが、さて現実はどうだろう?

弱者の側は強者の論理に言いくるめられ、脅迫され、あるいは洗脳されているだけではないのか?「強者のポジショントーク」のえげつなさ、胡散くささに辟易しているが故に、日本の国民は「弱者である自分たちの立場」からのポジショントークすら躊躇するようになってしまったのだろうか?

なんと従順で柔和で、そして言いくるめやすい羊のような国民だろう(苦笑)



安定した生活すら築けているとは思えない人達が、将来的に弱者がダメージを食らうことになる政策や経営論について新聞やワイドショーで聞きかじった知識を元にして「痛みを分かち合わなきゃ」と政治家・経営者きどりで口にするのを見るにつけ思うのだ。

「天下国家を論じるのもいいが、それが自分の生活と将来にどう跳ね返るのかをまず考えたほうがいいぜ。あなたがたが真っ先に切捨てられる世の中になるんだから」と。



自分の足元をしっかり見すえない言論は危うい。

自分自身のポジショントークすらまともにできないのなら「天下国家論」は酒場の馬鹿話にとどめておいたほうがいいと思うのだが。