風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

恋について - 断章

恋愛について何か書きたいな、と思った。
しかし、どうもうまくまとまらない。
そういう世界から離れて久しい僕には、書くのがもはや難しいのかもしれない。

恋は「炎」のようなものだと思っている。
炎には実体があるように思えるが、可燃性物質が酸素と結合する時に熱と光を出す
一過性の現象に過ぎない。
炎は光と熱を発し、その美しさで人を魅了する。
そして炎の渦中で人は、その狂おしさに文字通り身を焦がす。
可燃性物質は酸素を求め、酸素は結合する可燃性物質を求める。
そのたびに炎は燃え上がり、激しく揺れ動く。
しかし一過性の現象であるがゆえに必ず終わりが訪れるのだ。
可燃性物質も酸素も無尽蔵ではない。

恋愛とは引き裂かれた自分の半身との合一をはかろうとする行為だ。
それは、本質的に絶対不可能な事柄なのだ。
だから、恋に落ちた二人は幸福に酔いしれながらも不安にさいなまれ、時に疑心暗鬼に
なり、「引き裂かれた我が身の半身」と次に会える日を数え、常に相手の気持ちを確か
めようとする。
それでも「自分自身でないから」手放しで安心するのは難しい。

皮肉なことに、恋愛感情が安定するのはそれが社会的に安定した形態(結婚など)を
与えらるなどして「恋ではなくなった時」なのだ。
いえいえ、私は結婚してからもずっと夫に恋しています、とおっしゃる方もいらっしゃる
かもしれませんが、よく胸に手を当てて考えて頂きたい。もっと一緒にいたい、二人だけ
の世界に浸っていたい、誰より自分だけを見て世界中の誰より愛して欲しいという焦燥感
に苛まれていないのなら、それは僕の定義では「恋」ではない。
安定したが故に落ち着いてゆく「愛」であったり、場合によっては「情」であったり、
もっと他のものであったりするだろう。「愛」や「情」ならば、それは炎が落ちて
安定した「熾(おき)」になった状態と言ってもいいのかもしれない。

人生を豊かに生きるのに他者の「愛」や「情」は不可欠なものだ。
人は誰でも、添え木をされた苗のように多くの他者からの愛や情に支えられて生きて
いる。愛や情に支えられない人生は実にむなしく苦しく辛いものだろう。
「愛」や「情」は人の心にとって「お米のご飯」(主食)なのだから。
自分を支えてくれる「愛」や「情」を確保することは、食物を確保するのに匹敵する
ほど大切なことだ。

では「恋」は人生において不可欠なものか?
僕は自分自身については「不可欠ではない」という答を持っている。
ということで僕は、恋愛至上主義者にはなれなかった(笑)
もちろん、読者の方は各自それぞれに答を持っておられることでしょう ^^

自分が恋をしていた頃のことを思い返してみる。
あの至福感と陶酔感、あの激しい喜びと不安と狂おしさ。
僕にとっても確かに恋は「美しい炎」だった。

今、遠い日の炎の幻影を懐かしく思い出している。