風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

旅芸人の記録

夏休みを利用してテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」を見た。
普段あまり映画を見ない僕にとってギリシャ映画というのはこの作品が初めて。
しかし4時間の大作だというのに、息を詰めて一気に見てしまった。

この映画、セリフが極端に少ない。ほとんどの場面が沈黙の中で、引いたショット
だけで撮影されている。音楽もほとんどなく、あっても一座のアコーデオン奏者の
もの悲しい演奏だけ。そして寒々しい曇天(ギリシャのイメージと全く違う。まるで
ドイツか北欧の山間部のようだ)、薄暗い路地。カット割りはとても少なくて、
カメラはゆっくりゆっくりパンしつつ淡々と映し続ける。

それでは退屈で眠ってしまうのでは?と思われるだろう。
それがそうではないのだ。
カメラがゆっくりとパンする間、僕は緊張で息ができなかった。寒々しくもの悲しい
けれど、美しく印象的な映像がつぎつぎに現れ、目に強烈に焼き付いてゆく。
僕はこれまでこんな映画は見たことがない。

ギリシャ現代史に疎い僕にはわからない部分があったので、ネットでこの映画について
調べてみた。そしてギリシャ現代史が複雑で血塗られたものであったこと、旅芸人一家
の愛憎と復讐は古代ギリシャ神話のアトレウス王家の悲劇を正確になぞった形で作られ
ていることを知った。

この映画の中では、時間がいきつもどりつする。
冒頭の1952年のエギオン駅前のシーンから1939年に、それから1940年代のドイツ軍進駐
のシーン、また再び戻って1952年のシーンにというようにあっちへ飛び、こっちへ飛び
したあげく最後に再び冒頭の1952年のエギオン駅のシーンに回帰する。
その間、ファシスト達の圧制があり、左翼との共同政府時代があり、左翼弾圧がある。
長女エレクトラは母の愛人との密通を目撃し、ワイン一本を手に入れるために猥褻な
行為を行い、母の愛人を殺す段取りをし、国民義勇軍に強姦され、左翼ゲリラの弟を
殺される。それでも一座とともに生きてゆく(彼女の一つ一つの心の傷はどれほど
重いことだろう。しかし映像は最初から最後まで淡々としている)

ぞして一座は時代が変わっても「羊飼いの少女ゴルフォ」を演じつづける。
主役は父から息子へ、母から娘へ、息子が死ぬとその甥へ、というように変わっても。
配役が代わっても劇だけは変わらないのだ。政権が変わり、主義主張が変わり、
時代が移っても何一つ変わらないように。

こんなシーンがある。
1952年、線路沿いの道を一座の人達が歩いていると、向かいから選挙カーが来て軍事
政権の樹立を訴えてビラをまきながら通り過ぎる。カメラはそのままの位置で固定され、
無人の通りを写し続けるが、こんどは反対側からナチスドイツの車がやってくる。
時代が一瞬で1940年代に変わったのだ。まるでギリシャ軍事独裁政権とナチスドイツ
の同質性を訴えるように。このようにこの映画の中では「本質は同じ」ということを
示唆する表現がいたるところに見られる。

同じ事が一座の愛憎・復讐劇にも言える。
座長の妻の愛人は座長をドイツ軍に売り銃殺させる。復讐を誓った息子(左翼ゲリラ)
は長女と共謀し母親と愛人を舞台の上で射殺する。この部分は愛憎劇ではあるけれども、
これは古代ギリシャ神話と全く同じ骨格なのだ。
時代性があるようで、実は延々と繰り返されてきた『普遍的な悲劇』の一つに過ぎない
ことを示唆している。

さて、最初に書いた通り、この映画では最後のシーンが冒頭に回帰している。
つまり最初と最後がつながった「円環」になっているのだ。
この映画には二重の円環があるように思われる。
一つは庶民の生の営み。
その中に愛憎があり、復讐があり、生があり、死がある。
彼らは時代にも政治にも翻弄されるが、本質は古代ギリシャの時代から何も変わらず、
威嚇され、弾圧され、搾取され、それでも生きて行く。
もう一つの円環は政治だ。ファシスト政権があり、ドイツ軍が来て国民共同政府ができ、
左翼が弾圧され、時代が移り変わってもそこで行われていること(権力闘争)は同じ
なのだ。
永遠に不毛な「閉じられた円環」の中で繰り返される古典的な愛憎と復讐と生と死。
この円環構造を設定したことで、この映画はギリシャ現代史の描写にとどまらず、
社会と人間の不毛なかかわりという意味での普遍性を獲得したのではないか?

愚行と悲劇は繰り返し、繰り返し、そして繰り返す。
それでも人々は生きるしかない。
永遠に旅を続ける一座のように。
生きることは、悲しいことなのだ。

追記)
僕のこの感想はアンゲロブロス監督自身が意図したものとはズレているかもしれない
ことを申し添えておく。この映画が作られた1975年はまだ左翼・社会主義が夢を持って
語られていた時代だった。例えばこの映画で登場する政治勢力のうち左翼ゲリラだけが
どちらかというと好意的に描かれている。この果てしない閉塞した円環をうち破るもの
として社会主義に夢をかけていたとしても不思議はないのだ。

なので、僕の感想は素直でないのかもしれない。
それでも、僕にはこの映画で左翼政権に対する憧憬や希望が語られているとはどうしても
読みとれませんでした(ネットではそういうコメントも散見しましたが)。
いずれにせよ、この映画は共産・社会主義に夢を持てない現代においても普遍性を持ち
うる傑作だと思います。