風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

知の愛好者

ここのところ出張続きで再び消耗気味。
ホテルの部屋でPCに向かう元気もない夜は、寝転がって軽い本を読むのが精一杯だ。
そんな中、ブックオフで何気なく買ったのが五木寛之の「知の休日」という本。これは
軽い読み物なのだけれど中に面白い一節があった。五木は彼の父親、および彼自身も
「疑似知識人」である、として父親についてこう書いている。

彼は剣道の高段者で、平田篤胤ヘーゲルを一緒に読み、夜おそくまでせっせと書き物
をしていた。その『禊の弁証法』という題の文章は、ついに活字になることなく終わった。(中略)
彼は一生、ほんものの知識人になることなく世を去ったが、そのことと人間の価値とは
関係がない。真の知性は、いわば業のようなものだ。それを背負って生きることは、
悲劇にほかならない。私は父が疑似知識人であって良かった、と思っている。
すくなくとも同種の人間である私には、父が理解できるからだ。
(中略)
「知を愛する」こともまた、その人が背おった業のひとつである。将棋や博打、また
詐欺やスリの技に天与の才を受けた人間と同じことだ。数学の才を受けて生まれて
きた者もいれば、セックスの天才もいるだろう。


僕の父親について言えば、彼も読書と文章を書くことが好きで、今でも楽しみは
スピノザの「エチカ」とカントの「実践理性批判」を原書で読むことというような人だ
けれど、市井の人としてごく普通の仕事(学校や研究関連ではない職)をまっとうした。
彼は「疑似知識人」と呼んでもいいかもしれない。
しかし、僕に関して言えば「疑似知識人」の範疇にすら入らない。
かろうじて「知の愛好者」という範疇には入るかもしれないが。

五木が言う通り、知識人であることはもちろん、知を愛好するかどうかと人間の価値
には何の関わりもない。いやそれどころか、社会で普通の生活をするにあたっては
(少なくとも僕の職種では)何の役にもたたないし、むしろそんなことは表に出さない
ほうが無難なのだ。父もそうやって静かに人生を送ってきたし、僕もこのサイト以外
ではそんなことは口にしない。そういうことを知られて得になるような社会的集団に
僕は属しておらず、逆に受けるであろうマイナス点は数え切れないほどあるからだ。
ではどうして得にもならないのに「こそこそとエロ本を隠れて読む」ようなことを
続けるのだろうか?

吉田秀和は「詩を書く人が詩人なのではなく、詩人は詩人として生まれてくるのだ」
と言ったけれど、知の愛好者も同じだと思う。
本を沢山読む人、読んでいる人が知の愛好者ではない。
利があるから、社会的に得になるから、アクセサリーになるから、人に知的に見られ
たいから、そういう理由で本を読んで知識をつける人は無数にいる。だが知の愛好者
は何の得もなくても、格別な理由がなくても『本を読んで考えずにはおれない』のだ。
それは『業』なのだから。

だいたいリラックスして読み捨ててしかるべき「知の休日」を読んでも、こんな風に
連想と考えが広がってしまうあたり、やはり『業』にやられているのかもしれませんね。