風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

北極星を見失っていないか

自分が最近、社会全般についての反応が鈍くなっているのを感じる。
以前はいろいろな社会事象について自分の意見をもっと明確に持っていた。
例えばグローバライゼーションの中で日本の社会はどうあるべきか。
教育についてどう考えるか。
企業はどうあるべきか、等々。
なんだか社会を知れば知るほど、自分自身が現実の中でどんどん「平たく」なってくるような気がしてならない。
これを大人になる、というのか?

例えばこういうことがある。
社会の中で何かをやろうとすると、たとえそれがどんなに素晴らしいいいことでも、実現するには膨大な量の根回しが必要だ。前もってお願いし、泥まみれになって要請し、はいつくばって懇願し、時には力をちらつかせて多数の利害調整をしてやっとこさなんとか実現する。政治の世界だって、国会だって同じはずだ。

だから僕には政治家や官僚の人たちがやっていることが本当に痛いほどわかる。どんなに立派なお題目を唱えていても(それがテレビだろうと雑誌だろうとインターネットだろうと街頭のマイクからだろうと)社会は動かない。
特に利害が衝突する各論については、そうだ。
実際に社会を動かすのは地道である意味醜くスマートでない利害調整とプライドを押し殺した感情調整によって、なのである。僕自身が会社でやっている仕事だって、実のところ同じようなたぐいのこと、と言ってもよいものなのだが。

しかしそれでいいのだろうか?
強い米国が主導しているグローバライゼーションだから、市場から閉め出されないために日本も追随しなくてはいけない、弱肉強食の資本主義社会で企業そのものが生き残るためには多数のリストラもやむを得ない、成果主義が効率をあげるから何から何まで成果主義で行こう、等々。パワーバランスと利害調整の可能性と歴史的背景を考えると今の社会の方向は(一見改革、とか言って派手そうだけど)『やむを得ない』と言い訳しながら結局『現実的で利害が調整しやすい無理がない方向』に流れているだけなのだ。

だが本当にそれでいいのか?。
現実の猛吹雪の中を進むに当って我々は、いや、「僕」は足元だけを見ているのではないのか?
いったい「僕」には方角を示す北極星は見えているのだろうか?

僕ももういい歳だ。
「今の社会のあり方は間違っている」と言うには「社会の正しいあり方とそこに至る利害を調整できる仕組みと処方箋」まで主張できないと駄目なのだ。
学生じゃないのだから「言いっぱなしの理想主義」ではすまない。
では、易きに流れて傍観するだけで良いのか?

自分の北極星をもう一度目を凝らして捜してみたい、と思う。