風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

逃げていく街(2)

以前記事で取り上げた山田太一の「逃げていく街」。
この本、とても面白いので再び取り上げる。
この本についてはまだ書きたいし、この記事も最後ではない。
渥美清沢村貞子の生き方(死に様)についての一節。

おふたり(渥美清沢村貞子)の死を知り、亡くなる前の生き方を聞いて、
二度とも私は昔読んだ対談を思い出した。小林秀雄坂口安吾の昭和23年
の対話である。坂口安吾が「死ぬ座について顔色を変えなかった」などということ
小林秀雄は評価するが「そんなバカなことはないよ」というのである。
「顔色を変えた方がいいと思うんだよ。お前をこれから死刑に処します、と
いわれたら、真っ青になるよ」

 小林:そんなこと通俗じゃないか。
 坂口:ところが、通俗じゃないよ。それが文学を支配してると思うんだ。
 小林:顔色は変えないようがいいだろうね。
 坂口:そう?僕は変えたほうがいいと思うな。

このやりとりが、どうしてか浮んで来た。
いうまでもなく、この50年ばかりは、本音を偽らず「顔色は変えた方がいい」
というのが大勢で、自分を制御して顔色を変えない、などということを頑張って
みても誰も感心しない。むしろバカバカしい痩我慢に見えてしまう。そんな自己
統御の先になにもない。我慢したって、なにも生まれない。
そういう世の中だと思っていたが、渥美さんと沢村さんに身綺麗に死なれてみると
それはやはり美しいのである。(「美しい侍の死」より)。

小林秀雄は「心の中に圧搾空気(この場合は「やせ我慢」)をもつ生き方」を
評価し、坂口安吾は、少なくともこの局面では評価しない(彼が言いたいことも
わからないでもないが)。
山田太一は「バカバカしいやせ我慢」がやっぱり美しい、と言う。
僕も同感だ。

北野武ビートたけし)の映画を思いおこしてみる。あれだけ露悪的で「人生、
所詮本音が全て」のように喋り散らしているビートたけしがあのように叙情的で
「圧搾空気」を感じさせる映画を作るのは、それが実社会では「得」でなくても、
「実」はなくても、心の底で「美しい」と認めているからだと思う。