風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

収斂してゆく生〜「持つ」から「ある」へ

3月17日の記事「友人が亡くなりました」に書いた通り、僕はこの日、一人の友人を喪った。
彼の死はとても大きな出来事で僕はいろいろなことを考えさせられることになった。
中でも彼が周囲の人たちに心から感謝しつつ自分は本当に幸せだ、と言いながら亡くなっていったこと。これには深く考えさせられた。
いったい「幸せ」とはなんだろう?
若くして不治の病で死んでいった彼の「幸せ」と、僕たちが日々感じている感情とのこの大きなへだたりは?

そしてこんなことも思った。
僕は人生を空のかなたまで無数の枝分かれしつつ伸びてゆく木のように捉えていた、と。
しかし、彼の死後、これがまるで逆になったように感じた。つまり僕の生は徐々に収斂して一本の線になり死につながってゆくのだ。
ほとんどの読者の皆さんは、こういう実感をお持ちになったことはないでしょう。
しかし今回、僕はとてもリアルにそれを感じたのです(うまく言えませんが)。
僕たちの生は『死という虚無』に収斂してゆくその過程にすぎないのだ、と。

彼は短い生涯の中で「生が無限の未来に伸びる人生」から「死へ収斂する人生」への
急激な転換を迎え、その中で人格的な転換を成し遂げた人なのだろうと僕は思っている。
だからこそあれほどまでに見事な最期を遂げられたのではないだろうか。

エーリッヒ・フロムという哲学・心理学者がいる。
フロムは、人生には「持つ」という存在様式と「ある」という存在様式があり、「持つ」という現代で支配的な存在様式は人々が財産、知識、思想、善行、愛などを渇望し執着する生き方であるが、そこにおいては自己は「何を持っているか」で定義される存在だという。
そしてそこでは、人は「持っているもの」を喪うことを極度に恐れ常に不安にさいなまれることになる。何故ならその人のアイデンティティは「何を持っているか」で定義されるからだ。フロムは人間が真に解放されるためには「持つ」様式のくびきを解き放ち、自己中心性と利己心を捨てて「その個人が人間として本来在るべき姿に向けて束縛から解き放たれ成長してゆく生」=「”ある”という存在様式」に至らねばならない、とする。

フロムの説く「ある」様式への転換は厳しいもので「悟り」に近いと思わせる部分さえ
あるが(元々フロム自身、個人の内面が変革されるだけでは解決せず、社会構造全体が
変革されなくては人間の真の解放は達成し得ないと考えていた)彼の思想には一つの
ヒントがある。
何故なら「人生の午後」においては、人は得る以上に喪うものの方が多いからだ。
持っているものすべてに執着していたら、アイデンティティ・クライシスに陥ることは
目に見えている。フロムが言うように自分の内面を見つめ、自分がいったい何に飢えて
いるのか、どういう執着を持っているのか、何を喪うことを一番恐れているのか、
それらを深い部分まで探り、自己認識することについては大きな意味があるように思う。

関連する考え方として河合隼雄の言葉を挙げる。

今まで無意味として棄て去っていたものにも意味を発見することになり、それは人生の
前半において見出した意味を超えるものになる。それは自分が財産や地位を得るとか、
自分が社会にどれほど貢献するかということを超え、自と他、内界と外界、意識と
無意識、合理と非合理などに共通する意味を探る仕事であり、これこそユングの言う
自己実現の過程なのである。しかし、これは困難と苦しみに満ちた過程であり、
相当の決意を要する仕事である。

少し前の僕はこの言葉を読んでも「さっぱり分からん」という状態だったと思う。
ところが、今はこの言葉がとても心に沁みるのです。
それだけ僕の内面が大きく変わったのだと思います。

人生は過程だといふ気がする。
生から死への旅である。
事の成ると成らないとは問題ではない。
どれだけ真実をつくしたか、それが問題だ

こちらは種田山頭火の言葉です。
僕も最近、しみじみとそう思うのです。
僕の亡くなった友人は『自分は生きていて何も役に立たず、病気になっただけだった』
といいつつ、しかし、笑顔を絶やさず周囲に感謝しつつその生を終えました。
彼は「持つ」様式から「ある」様式に心の重心を移しかえることで、平安を得たのでは
ないでしょうか。

彼は、何も持たなかったけれど、自分の生を真実をつくして精一杯生きたと思います。
それは、実に素晴らしい生だったと言わざるを得ません。