風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

コロンの銘柄

バスを降りて、少し歩いて、あっ!と思った。
アタッシュケースが、ない。
網棚に忘れたのだ。
顔から血が音を立てて引くのがわかった。

だいたいスケジュールが過酷だった。
まず、スイスとドイツで1週間仕事。
それも昼は取引先との交渉で、夜は別件でアメリカと日本の取引先と国際
電話で連絡をとりながらトラブル解決にあたり(一晩で国際電話代が20万円
かかった夜もあった)その後、大西洋を渡ってシカゴに到着、そこで一週間
仕事をして、またヨーロッパに戻ろうと疲れ切った体を引きずって、オヘア
空港に向かうシャトルバスに乗ったのだ。

バスに乗り込んだ時、僕はいささかほっとしていたのだと思う。
アタッシュケースを網棚に上げて、僕は爆睡してしまった。ふと目が覚める
とバスはもうターミナルについている。僕は慌てて下車した。
書類とパスポートと航空券と現金が入ったアタッシュケースを置いたまま。

さっそくバス会社に連絡を取り、このバスに乗ったから網棚を探してくれ、
と頼んだ。待つうちに返事があり、そんなものは見あたらない、とのこと。
僕はひどく落ち込んだ。
この広く治安の悪いシカゴでカバンが出てくるのは奇跡だろう。
しかし、がっかりしていても何も変わらない。
自分にできることをやるだけだ。
そう思って、僕はフライトを2日後に変更した上で、空港のセキュリティ
部門に向かった。

この時の僕は相当テンパっていたと思う。
空港のセキュリティ担当者(黒人の女性だった)に、カバンの特徴や大きさ、
中に大切なものが入っていること、などを一方的にまくし立てた。
彼女は、黙って僕の申し立てを聞いていたのだが、静かにこう言った。
「あなたのコロン、素敵な香りね。どこのブランド?」

僕はあっけにとられた。
そして、肩の力が抜けた。
そうだよね。
そんなにテンパって大騒ぎしても、何も変わりはしないよね。
僕は微笑して、ありがとう、と言い、コロンの銘柄を彼女に教えた。

詳細は省くけれど、カバンは翌日、バス会社の人が見つけたといって持って
きてくれた。現金とウォークマンは盗まれていたけれど、航空券、パスポー
トは無事だった。出てくるなんて、本当に奇跡だ、と思った。
僕は持ってきてくれた人に20ドル、チップを渡した。

この時、僕がつけていたのは、JIL SANDERのMANⅢというコロンでした。
残念ながら製造中止になったようで、その後のMANⅢは全然気に入らない。
MANⅢはもう手に入らないのだろうか。
苦い思い出と一緒になったあの香りが懐かしいのだが。