風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

悔恨の共同体

それでも人生にイエスと言う」で取り上げた友人は今、ホスピスにいる。
僕は定期的にお見舞いに行っているのだが、見るたびに痩せてゆく彼の
姿を見るのは正直辛い。それでも僕はお見舞いに行かずにはおれない。

彼は「自分は幸せだ、こんなにたくさんのいい友人に囲まれて」という。
しかし、彼には心残りなことが一つ、ある。
それは彼が心から愛する人と、とうとう結婚できないままであることだ。
どんなに結婚したかっただろう、と思うと胸が痛む。
僕は、この事実をずっと忘れないでおこう、と思う。
結婚したくても、愛する人と結婚できなかった友がいるのだ、という事実を。

この過酷な運命を引き受けざるを得なかった友は、偶然、天に選ばれたので
あって、それは僕でもよかったはずなのだ。。
彼ではなく、僕が不治の病になることだってあり得たのだ。
彼がなったのは偶然だし、僕がならなかったのも偶然だ。

佐伯啓思氏の著書の中に「悔恨の共同体」という言葉が出てくる。
共同体の中でその紐帯の柱になる強い思い。
それは「自分ではなく他人が偶然選ばれて犠牲になった。自分は人々の犠牲
の上に『生かされている』という思いだ」という。

どんな共同体も犠牲の上に成り立っている。
それは戦争に限らない。
誰かが偶然選ばれて、災害に遭う。
誰かが偶然選ばれて、若くして死んでゆく。
誰かが偶然選ばれて、不幸で辛い日々を過ごす。
能力やら、やる気やら、そういうものとは無関係に偶然に不可避的に降りか
かる災厄や辛い運命。
偶然、その対象になることは「犠牲」でなくて何だろう?

その犠牲になった人々の思い、つらさ、無念さを胸に刻んで、残された者たち
は生きてゆく。
君ができなかった分まで、僕は愛する人たちを大切にする。
君ができなかった分まで、僕は精一杯前を向いて生きる。
君ができなかった分まで、僕はよりよい共同体を作りあげるように努める。

残された者には責務がある。
運悪く犠牲になった人たちの無念さを背負って、精一杯、善く生きること。
それは、生きている者が果たすべき義務なのだ。