風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

極限状況としての恋愛

何もプレッシャーのないところで誠実に振舞うことは、簡単だ。
難しいのは、ぎりぎりの極限状況で、そう振舞えるか、ということ。
それは、自動車の『チキンレース』(度胸試しのためのゲームで、例えば
崖に向かって車を全速力で走らせ、どれほどぎりぎりまでブレーキを踏まず
我慢できるかを競う)によく似ている。
臆病な人間ほど、早くブレーキを踏んで(=逃げて)しまうのだ。

さて、この記事は緑さんの記事「恋愛」
に触発されて書きました。記事へコメントも書いたのだけれど、もう少し
話として膨らませたいと思って、許可を頂いてこうさせて頂きました。
緑さん、ありがとうございます。

緑さんが記事で問いかけておられることはこういうことだ。
【引用始まり】 ---
恋愛という場面における不誠実を、その人じたいの不誠実さと捉えて
よいものかいささか悩む。
【引用終わり】 ---

恋愛沙汰になると、ごく普通の人でも急に不誠実なことをしたり、嘘を
ついたり、日常では想像できない行動に出ることがある。
これは、何故だろう?
それも、日常生活ではまったく普通の市井の善男善女が、そうなるのだ。
不思議じゃないですか?

僕はこうコメントさせて頂いた。

恋愛は一種の極限状況です。
極限状況において、人間は限りなく本能に忠実になります。

友情においては、意志の力、良識の力で感情の力を
押さえ込むことはたやすい。でも恋愛ではそうは
いきません。

緑さんの命題は
「極限状況で不誠実な人は、日常生活でも不誠実か?」
と言い換えられますが、その答えはノーですね ^^
それでも、極限でも可能な限り誠実であろうとする人、
すぐに本能に負ける人、本当に人それぞれです。

極限状況で、その過酷さの程度、周囲の状況、本人の意志の強さで、
その瞬間誠実に振る舞えるかどうか決まるのと同様に「極限状況として
の恋愛」においても、まったく同じことが言えるのではないか。

その恋愛の、本人にとっての「極限状況度」が高ければ高いほど、人は
不誠実になりやすく、自分の利を計り、その場しのぎに相手の気持ちを
踏みつけにしても保身を計るだろう。また、すぐに事態を「極限状況」
と捉えがちな人ほど、そうなる可能性は大きいだろう。
逆に、恋愛でいつも誠実に振る舞える人は、恐ろしく意志が強い可能性
がある反面、ひょっとしたら「いつもあまり本気じゃない」可能性だっ
てあるだろう。

じゃあ「極限状況としての恋愛」でも誠実に振る舞えるケースはないのか?
と考えると、それはありうる。
それは、以前に記事で書いた「自分より相手のほうが大切」と思うような
の恋愛だ。この場合に限っては、極限状況度が高くても、相手のために
自らを捨てて精一杯誠実に振る舞う、ということがあり得る。
船が沈没した時、満員のボートを前に、恋人や妻に席を譲るため自ら船縁
から手を離して沈んでゆく男達のように。

『至高の愛』って、やはり誠実なものかもしれませんね。
 (↑書いていて背中が痒いです、苦笑)