風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

揺さぶる

最近、Trackbackをしたり、このサイトもだんだんブログらしくなって
きました ^^ 今日の記事はnanaさんの記事「揺さぶられる」
Trackbackです。

nanaさんがおっしゃるように、僕がコメントで使った「揺さぶる」という
言葉は、まさに木があってそれを「揺さぶる」というイメージです。
「木」がない場合、揺さぶることもできません。
僕は、まさにnanaさんが捉えられた通り「自分自身を揺さぶる」という意味
で言っております。

僕は、整合性がある哲学を持った人間でありたい、という欲求が強いよう
に思います。バラバラな雑多なものの集合体としての魅力ある人間である
よりも、倫理的、論理的に整合性の取れた哲学を持った人間でありたい。
このやっかいで複雑な世界について、自分の確信を持った立場からもの
が言えるような、そんな僕なりに持っている理想の人間像に少しでも近づ
きたい、と思っているようです。

それが果たしていいことなのか、人間として望ましいことなのか、と
いう議論はあるでしょうが(注釈しておきますが「おもしろい人間」
「魅力的な人間」かどうかとは別です)僕の中にははっきりした結論が
あって、それは「何が善なのか」「善いとか悪いとかいうことは、
いったい何で決まるのか」といったことに対する僕なりの結論から
つながっていることです。
そして、決してnanaさんが言われるように、自分のコアに自信を持つ
まではいたっていないけれど、それを目指していることは事実です。

そういうことなので、僕にとっては本を読んだり考えたりすることは、
あるときは一本の木を育てる肥料であったり、別の場合は木を敢えて
大きく揺さぶって鍛えてくれる「嵐」のイメージかもしれません。
木の葉がちぎれて飛んでしまうほどの嵐がなければ、木は本当には強く
育たない。そういう圧倒的な言説こそ、僕が待ち望んでいるものです。
僕の哲学を、僕のパラダイムを根こそぎ揺さぶるような強烈な言説、
強烈な事実に出会うことを、僕は心から待ち望んでいます。

この日記を始めた時、私がしたかったのは自分の感覚を研ぎ澄ますこと
だったように思う。心で感じる世界を分かる言葉で綴る。外からやって
くるものに触発されて。受動的ではあるけれど、受け手の私がそれを
どう自分の中に取り込み、あるいは変わっていく力としていくか。
私の鍵はそこにある。見えていなかったものが見えるように、気づか
なかったものに気づくように。感じるというその感覚そのものを、
研ぎ澄ませたい。

言葉もニュアンスも違いますが、僕の場合もこれは同じです。
外からの刺激、言説を自分が受容したり(受容しなかったり)しつつ、
自分がどう変わっていくか。ただ、僕の場合はそれは「感じる」という
よりは「視野が広がる」とか「わかる」という感覚かもしれませんが。

それは視点を変えるということではなくて、本質を見る力を身につけ
たいということに他ならない。

僕は、世界をまるごと全て受容したいのです。
本質だけではなくて、夾雑物も含めて、まるごと。
多面体で、いろいろな見方、切り方がある世界の多様さ、複雑さを受容
した上で、最後は自分の哲学・生き方で責任を持って自覚的に
『自分の立場を選ぶ』。
それこそが僕が望んでいることに他なりません。

ほんとう、揺さぶられました。awayさんは自らを揺さぶりたいと言い
ながら、人をも大いに揺さぶっていることを自覚しておられるだろ
うか(笑)。

まったく自覚してないわけでもないです(笑)
nanaさんを、多少とも揺さぶることができたのなら、嬉しいです(笑)
僕の言説が、どなたかの哲学やパラダイムを揺さぶって、その方の人生
に何かを付与できるのであれば、ほんとうに記者冥利に尽きます。