風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

たった一人のための音楽

ショパンが友人にあてた手紙の中に、こういう言葉がある。
「演奏会の前、数日間がどれほど苦しいものか、あなたには想像もつか
 ないでしょう。そんな時、僕はいつもバッハの平均律クラヴィア曲集
 を弾きます」

演奏者している人、ひとりだけいれば成立する音楽。
平均律クラヴィア曲集」は、そういう音楽だ。
いや、この言い方は妥当ではない。
ひとは一人で好きな歌を口ずさむし、好きな曲を楽器で弾いたりする。
僕はそういう意味のことを書いているのではないのだから。

音楽は何のために演奏されるのか?
基本にあるのは「人に何かを伝える」だろう。人は演奏された音楽を
聴いて心を動かされ、感情を共有し、涙を流す。あるいは喜びや心の
平安を共有する。多かれ少なかれ、クラシックであろうとジャズで
あろうとポピュラーであろうと、基本的に作曲家はその目的で音楽を
書いている。しかしバッハの「平均律クラヴィア曲集」を聴くとき、
そこには聴衆の必要性は感じられない。よって、ある音楽評論家は
「たった一つの孤独な魂のための音楽」と呼んだのだが、僕はそうは
思わない。

これは、対話なのだ。
演奏者と神との静かな対話。
バッハの時代、神はまだ当然のようにリアルなものとして人々の心の
中に存在していた。だからニーチェによって神の死が宣告される前は
現代人が考えるような「孤独」は存在し得なかったのだ。
事実「神が死んだ」後、同じ制約のもとでショスタコビッチが作曲
した「24の前奏曲とフーガ」は全く違う様相の曲集になっている。

僕は幸いにして、すこしピアノが弾ける。
決して上手ではないのだけれど、平均律クラヴィア曲集の前奏曲
フーガのいくつかは、なんとか弾ける(親に感謝しなくては!)。
だから、僕でもショパンの気持ちがいくらかわかるのだ。

僕が特に好きなのは、第一巻の嬰ニ短調のフーガとヘ短調のフーガ。
この二つはよく弾く。フーガを弾くことは素人の僕には簡単なこと
ではない。なにしろ手は二本しかないのに、ズレながら同時進行する
3〜4つの旋律線を弾き分けないといけないのだから。
心を研ぎ澄ませ、深呼吸をして集中しないと到底弾けるものではない。

バッハは「平均律」の表紙に「クラヴィア(ピアノ)に熟達した奏者
の慰めのために」と書いた。
こころが苦しいとき、辛いことでいっぱいのとき、冷たい鍵盤に手を
降ろし「平均律」のフーガを静かに静かに弾くと、少しずつ心が洗わ
れて楽になる。
ここには深い癒しがあり、根元的な赦しがある。

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

(古い演奏ですが、素晴らしいです)