風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

思想の有用性について

ここ10年程の自分を顧みると数年おきに転職してきたようなもんだな、と思う。
それも同じ業務でもって別の会社に転職したのではなくて、まったく違う職種
の仕事に転職し続けてきた、という感覚だ。

スポーツに例えると、営業管理職だった時代はチームのキャプテンを勤めて
いた感じ。フィールドで選手たちと一緒に走りながら叱咤激励し、フォーメー
ションの穴を見つけて指示し、現場のモチベーションアップをはかってきた。
事業部長時代は、選手を引退してチームの監督になった感じで、ここで職種が
変わった感じがする。フィールドで起こることはキャプテン以下の選手たち
に任せ、鳥瞰した視点、長期的な視点からチームが勝つために必要な戦略、
戦術を練って実行に移させる仕事だった。
名選手必ずしも名監督ならず、というがこれだけ仕事内容が変わるとは予想外
だったし、事実その点で切り替えがうまくいかない事業部長も多数いた。

次に執行役員になった時も、全然別の職種に転職したという感覚を持った。
仕事は大リーグで言ったらGM(ジェネラルマネージャー)の仕事という感じ。
大リーグのGMというと、選手編成から観客動員、スタジアム設備の問題、
メディア対応や警備の問題まで気にして差配する仕事だから、フィールドの
ことだけに集中できる監督とは全く違う。
そして取締役就任。この時点でも、もう一度大きく転職した感覚だ。
(事実、就任にあたって社員としては退職したわけだが)。
経営側なので、GMを雇っている感覚であり、さらに企業体としての存続のため
の方針決定、税務・労務・法務的な事柄、どの分野に重点投資するか、どこから
投資を引き上げるかの判断、配当の問題等、これまたまったくこれまでとは違う
内容の能力を要求される職種という感覚だ。
これだけ短期間に仕事内容が変わると、ついていくのがやっとで、疲れ果てるのも
無理はないのかもしれない。ここ何年かは自由時間のほとんどを勉強に当てていて
何一つ他のことができないのは、自分の能力を考えると無理ないのかもしれない。

しかし息絶え絶えとはいえ現職で仕事をするにあたっては、哲学・思想を齧って
いたことが実に大きく役に立っている。もちろん僕自身を形作っているのは、
この記事この記事に書いたようにサルトルフランクル実存主義で、彼らの
思想は事業部長時代までの僕を本当によく支えてくれたけれど(今でももちろん
支えられているのであるが)取締役になってからは現代思想、特に構造主義的な
視点の有用性を日々痛感している。

さて「経営する」とはどういうことか。
ある程度の企業体であれば、組織がマニュアル的に処理できることが経営層まで
問題として上がってくることはあまりない。つまり処理を求められる問題の多くは
『組織がどう処理したらよいか不明な事柄』ということだ。
『どうしたら良いか誰もわからない問題に答を出す』ことが要求されている、と
言い替えても良い。
『どうしたら良いか誰もわからない問題に答を出す』ことに歴史的にずっとトライ
して来たのが哲学者であり思想家であることは言うまでもないことであるが、
もちろんレヴィ=ストロースの親族構造論が僕が当面する問題を解決に導いて
くれるわけではない。しかしながら、思想家や哲学者の「思考のスキーム」や
「光を当てる角度の変え方」が、当面する問題を考えるにあたって大きなヒント
をくれる。例えば先に上げたレヴィ=ストロースの理論は『人間の合理的判断や
人間的感情が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間の感情や言語論理
を作り出す』ことを喝破した。
これは組織について考えるときには大きなヒントになる。
いや、ここまで直接的でなくても、問題を考えるときに、常に上位概念審級の中に
埋め込まれたコードの解読から当面の問題の本質を探るような形の思考プロセス
が僕の中で自動起動するようになっており、これが実に有用なのだ。
(この部分、うまい説明が見当たらなくて悔しい。もっと吟味していずれきちん
言語化しておきたい)

「哲学は無駄飯」「現代思想は無用の長物」と言われて久しい。
僕には到底そうは思えないし、これらがなければ僕は日々仕事ができない上に、
自分を支えて生きることすら難しい。
目下の僕の悩みはエネルギーがなくて哲学や思想についてさらに吸収する余裕が
ないことだ。問題解決力を上げるにはさらなる吸収と思考の深化が必要なのだが。
悩ましい限りである。