風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

語り得ぬこと

いにしえの日本では「言霊」が信じられていた。
言葉には霊的な力が宿っており、現実を左右される力があると考えられていたのだ。
もちろん現代でも、言葉の力は信じられている。
しかしながら、それは霊的な力ではなく、ある人の思っていること、考えていること
を表明し、人に伝え人を動かす力である。現代では誰もが、言葉は人間の関係性を、
世界の実態を、考えていることを表すことができる万能のツールだと信じているかの
ようだ。かくして、このネット時代、人々の間には、以前にも増して万能のツールと
しての言葉が溢れる。

ヴィットゲンシュタインは「論理哲学論考」において「語り得ぬことには沈黙しなけ
ればならない」と言った。これは、論理実証主義写像理論をベースに「言語によっ
て語り得ること(事実)」と「語り得ないこと(現実との一致・不一致を実証的に
確認できないこと)」を明確に分け、語り得ることについてのみ明晰に語るべきで
あると言ったもので、この言葉は本来、哲学的・思想的な文脈において慎重に使用
されるべきものと思うけれど、もっとプラクティカルな意味合いにおいても至言だ
と思うのだ。

特に人と人の関係において、その関係そのものに関わる事柄については、できる
だけ言葉に出さないこと、言葉で表現しないことが大切だ、と僕は思う。
「私とあなたは○○だ」とかそういったことは、言葉にしないで済まされるので
あればそのほうがいい。
一旦、提出された言葉は、その力でもって関係性を規定するようになる。
そしてそれは、必ずしもプラスの方向に働くわけではないのだ。
人が人に対してもつ複雑な思いは「語り得ぬこと」である、と思った方がいい。

にもかかわらず、人は言葉に頼ろうとするのは何故?
不安だからだ。
言質を取ることで何かしら安心を得られる。
言葉にしないことは、相手との関係性において不安を抱えることだ。
しかし、人はその不安に耐えなくてはならない。
大切なことは、その関係性において起こる「事実」であって「言質」ではないのだ。
ネット時代になり、言葉が容易に交わされるようになり、ますます人々は不安の解消
に奔走しているように見える。
しかしいくら言葉を積み上げてみても、どこか虚しいのではないだろうか?

生きることは、不確実性の海の中で泳ぎ続けることだ。
それを覚悟するしかない。