風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

生物と無生物のあいだ

巷で評判になっていることに加えて、あづみさんの記事を読んで興味を持ち、この
本を手に取った。
この本を読んでまず感じたのは「理系的な語り口ではない」ことだ。

理系の人が書く本は得てして「きちっと」している。
「きちっと」というのはどういう意味か、というと著者が言いたいことがいくつか
あって、それに向かって無駄なく合理的に構成されているということだ。
以前、プレゼン用のパワーポイントというソフトに「アウトラインモード」というの
があり(今でもあるのかもしれないけれど)、それを使うとプレゼンを流れに沿って
論理的、合理的に組み立てられるようになっていたけれど、理系の著者の書物は得て
してあんな具合に構成されているものが多いのだ。
その結果、書物は、見通しが良く、わかりやすく、理解しやすくなるのだが、反面、
大切な「何か」が欠けてしまう。しかし、この本にはその「何か」がふんだんにあり、
その点で普通の理系の著者の本とはひと味違ったものになっている。

この著者は「生物と無生物を分けるのは何か?」という疑問を縦糸に、自身の研究
生活やDNA=遺伝子という発見に至りかかっていたエイブリーという研究者のエピ
ソードを横糸にこの書を織り上げているのだが、この横糸故にこの書は複雑な味わい
を醸し出している。このような面白さは、凡百の類書(科学啓蒙書)と本書で大きく
違うところだと思う。さて、このような構成を取っているが故に、逆に本書は要約
しづらく内容を一言で語りにくいという特徴も持っている(笑)。
ちょうど生命の多様性そのもののように、読み手によって感銘を受ける部分も多様
なのではないかと思えるのだ。

ぼく自身が一番感銘を受けたのは、やはり生命がもつ「動的平衡」を保つメカニズム
の精妙さだった。例えば我々人間の体にしても日々タンパク質や脂肪が捨てられると
同時に新しく作られ、細胞は死滅し新たな分子と入れ替えられ続けていること。
それも爪や髪といった「入れ替え」が実感できるものに限らず、骨や臓器や脳細胞と
いった一見、固定的に感じられるものたちですら、すごいスピードで「入れ替え」が
行われており、分子レベルで見れば我々はほんのわずかな間に、元の構成分子から
ほとんど全て「置き換えられて」いるという事実。
これは、つくづくすごいことだと思う。

つまり、1年前の僕と今の僕はほとんど全て分子は入れ替わっている、ということ
である。脳細胞もそうである、ということになれば、いったい「僕は僕である」と
いう同一性はあると言えるのだろうか?(笑)
どうやら、「魂」や「心」は少なくとも分子の入れ替えには影響されないようだ。
いや、本当はこの入れ替えに影響されつづけている、とも言えるのかもしれないが。
少なくとも、この事実から「自分が自分であるということはどういうことか」と
いう問いに答えるのはますます難しくなった。

最後の章で、著者たちが行った非常に興味深い実験の結果が述べられている。
著者達はGP2と呼ばれるタンパク質が細胞膜の挙動に決定的な影響を与えると
考え、GP2を作り出す遺伝子を持たないネズミを人工的に作り出して観察する。
しかし、本来ならばGP2遺伝子が欠落しているがゆえに細胞膜には大きな欠陥
が生じているはずなのに、観察されるネズミの細胞は何故かまったく正常なのだ。
ここから、著者は生物は機械のアナロジーで理解できないフレキシブルな機能を
持っていると語る。つまり、ある欠落があったとき、動的平衡状態はそれを埋める
(あるいはバイパスを作る)ことでバランスを取ろうとするというのだ。

脳をコンピュータのアナロジーで理解することは不可能である、とはよく言われる。
例えば、脳のある部分が欠損しても他の部分によってその機能が代替されるとか
記憶にしても、ある固定的な部分である事柄が記憶されているのではなく、脳内の
ネットワークの関係性が記憶であるから、ホログラムのように脳のある部分が
ダメージを受けても記憶が完全には失われない、といったようなことだ。
これは面白いことに軍事的安全性から生み出された初期のインターネット(中心が
存在せず情報はネットワークの中に偏在する)に少し似た部分を感じる。
脳のネットワーク的構造のように、動的平衡という仕組みも自然が生み出した本質
的な「生命の安全設計の手法」なのだろうか。
こういった連想が次々と浮かんでくるような、久しぶりに「センス・オブ・ワンダー
を感じさせてくれた良書だった。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)