風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

自殺社会

しばらく前からひどく体調が悪い。
出張から帰った翌日などひどい倦怠感で体中に重りをぶら下げているよう。
普通に道を歩くのでさえ苦痛だ。
加えて胃痛がどうにもひどくなり、とうとう病院に行った。
診断は「ストレスと過労からくる胃炎」とのこと。

無理もないとも思う。
もう何年も隔週で出張に行っている(このサイトの更新の半分以上は出張先のホテルからです)。内勤の人は「出張なんていいですね」というけれど、実に体へのダメージは大きい。疲れが樽の底の澱のように溜まりに溜まっているのが自分でもわかる。
しかし、これをやめるわけにはいかないし、今後働くペースや精神的なストレスや仕事量が減ることもないだろう。

朝日新聞に日本の自殺者総数が3万人を超えたことについて書いてあった。
アメリカやイギリスの2.5倍、10万人あたり24人の自殺率とのこと。
それも1997年から1998年の間に実に8000人(40%以上)増えているそうだと。これについて評論家の芹沢俊介氏がこのように書いている。

私は「生の斜面」という言葉を比喩的に使っている。私たちは生の斜面に立っている。斜面が緩やかならゆったりと生きていけるが、ここ10年ぐらいは非常に斜度が険しくなってはいないか。
その傾斜は70年代から少しずつ上がり、90年代に一気に急角度になった。(企業によって)要の側に選別された人でもいつ不要とされるか分からないという不安を抱え、脇を締めて体をこわばらせていなかれば斜面をずり落ちてしまう緊張度の高い社会になった。リストラが一段落しても自殺者が減らないのは、要・不要のメカニズムが社会構造にきっちり組み込まれたからだ。こんな緊張度の高い社会は世界的にもないでしょう。


企業で働いている者として、この言葉に実感するところは多い。
社会の「傾斜度」は明らかに上がっている。
皆、まず「自分」が滑り落ちないように踏みとどまるのに必死で周りを見回す余裕がなくなっている。もちろん中には上を目指して必死でよじ登ろうとする者もいる。しかし傾斜に耐えかねて自ら手を離して落ちてゆくものも増えているのだ。

興味深いのは日本がモデルとしているアメリカの自由競争社会では自殺が少ないことだ。日本以上に過酷な競争社会であるにもかかわらず。これは日本人とアメリカ人のメンタリティの違いによるところが大きいのではないだろうか。狩猟民族であるアングロサクソンは「失敗は当たり前で何度でもやり直しはきく、チャレンジすることに価値がある」という社会的なコンセンサスを持っているように思う。このベースになっているのは欧米人の個人のメンタルなタフさであり、めげないポジティブさと楽天主義だ。

農耕民族である日本人のメンタリティと暗黙のコンセンサスはいささか違う。メンタリティとしてはより繊細で失敗に敏感、集団への帰属意識が強く個人でリスクと責任を引き受けるのを嫌う。社会的には「失敗はよろしくない、安定に価値がある、集団に帰属することで個人的責任は追及されず安全も得られる」というのが数千年の歴史で培われた暗黙の価値観だった。この日本人のメンタリティとコンセンサスのまま、社会の傾斜度だけ上げると自殺率や鬱病罹患率はますます高くなるのではないだろうか。それとも余計な心配などしなくても、食文化がそうであったように、これは一時的な問題で日本人のメンタリティもどんどんアングロサクソンに近づくのだろうか。

交通事故の死者が毎年1万人以上出ても車を廃止しないのは「人間が国内で年間1万人死んでも車の利便性は代え難い。犠牲はやむを得ない」と社会が暗黙のうちに是認しているということだ。同様に「たとえ自殺者が毎年3万人出ても今の傾斜度を持つ社会体制は多くの人にとってメリットのほうが大きい。だからやむを得ない」ということなのだろうか。

薬を貰って会社に戻ったら健康診断の結果が来ていました。
胃カメラを飲まないといけないそうです。
人よりもタフなつもりだったのですが、、、やれやれ、です。