風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

危険な年齢(2)

記事「危険な年齢」で僕はユングの言葉を引いて、中年期は生きている上でのターニングポイントであり、第二の思春期とも呼ばれていること、無意識に潜む暗い力(=生きている力)と意識的な世界を統合し、心の全体性を回復することが重要だ、と書いた。

精神病患者へのセラピーでは自由連想や夢を使って無意識領域からのメッセージを聞き、患者本人自身がそれを意識化できるようにするということが行われている。それで必ず精神病が治る、というものではないようだが、無意識からのメッセージの内容に「気づく」ことは治癒への一つのステップであることは間違いないようだ。

たとえ精神病でなくても人間誰しも未知の無意識領域を持っていて、そこには種々のコンプレックスや影の部分、抑圧された部分、幼少期の記憶、トラウマなどが潜んでいる。それらは形を変えて時々意識の表層に上ってきては自分でも信じられないような衝動や欲望を与えるのだが、現れ方は様々である時はエロスの形で、ある場合は暴力衝動で、また別の場合は抑鬱症状になって現れたりする。

意識のうちに現れでるものは、すべて、ある一つの連鎖の最後の環であり、一つの結末である。ある思念が他の思念の原因であるように見えても、それは見かけだけのことにすぎない。実際の生起の結びつきは、我々の意識の下部で進行している。現れでる感情や思念などの系列と継起は、実際の生起の徴なのだ。

これはフロイトユングとベースになる考え方と同じだ。
つまり、我々は自分の意識で主体的に生きていると『思っている』だけなのだ。
なるほど、日頃の自動的な日常生活では主体的な意志で生きているかもしれない。しかし心に大きなストレスがかかるシチュエーションや、急な変化を伴う状況では実は意志の力ではなく、無意識領域からの力で動かされていることも多々あるのではないだろうか。
中年期は思春期同様(転換期であるが故に)この無意識領域に溜まっているエネルギー量が大きく、それ故に心の表層が無意識領域からの力でかき乱されることが多いのだろうと思う。本人も周囲も理解できないような衝動や暴発的な行動が頻発するのはそのためと思えてならない。

この嵐をやり過ごしひとつの山を越えるには、精神病の治療と同じ過程を踏むしかないように思われる。つまり無意識からのメッセージの意味を自分自身で「気づき、そして、わかる」ことがなにより必要なのではないだろうか。人が日常的に「自分」だと思っている意識領域を「自我」と呼び、本人が気づいていない無意識領域までを含んだ全体を「自己」と呼ぶ。この過程は言い換えると「自我」が「自己」のある部分と対決して止揚し、より包括的で大きな「自我」になる(=生きる力を取り込んで「自己」に近づく)ことなのだろう。
これこそがユングの言う「心の全体性の回復」ではないだろうか。

そのためには自分の内面に目を向け、何が自分をこういう行動に駆り立てているのか、何を無意識の奥底で自分が欲しているのか、まずは自分で深く考え内面からの声に耳をすませる必要があると思う。無意識領域からの力に負けて惑溺するのではなく、そのメッセージに耳を傾けて緊張感をもちつつ対峙し、それを意識化してこそ、人生の次のステージに進んでゆくことができるのではないだろうか。

今日はフロムの思想について書く余裕がありませんでした
またそのうちに書きます。