風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ヤクニン

司馬遼太郎の「世に棲む日日」で、おもしろいくだりにぶつかった。
この小説は尊皇攘夷に燃える幕末動乱期の長州藩が舞台なのだが、その中に、
長州藩が惨敗した下関での四カ国連合艦隊との戦争(馬関戦争)の講和の
くだりがある。ここで英国側が長州藩の交渉委員の態度を見て、こう思うのだ。

「これは役人にすぎん」
と、クーパー提督やサトー通訳官はそうおもい、そのことを自分たちの国語で
話しあった。
「ヤクニン」
という日本語は、この当時、ローニン(攘夷浪士)ということばほどに国際語
になっていた。ちなみに役人というのは、徳川封建制の特殊な風土からうまれ
た種族で、その精神内容は西洋の官僚ともちがっている。極度に事なかれで、
何事も自分の責任で決定したがらず、ばくぜんと
「上司」
ということばをつかい、「上司の命令であるから」といって、明快な答えを
回避し、あとはヤクニン特有の魚のような無表情になる。
 −上司とはいったいたれか。その上司とかけあおう。
と、外国人が問いつめてゆくと、ヤクニンは言を左右にし、やがて「上司」
とは責任と姓名をもった単独人ではなく、たとえば「老中会議」といった煙
のような存在で、生身の実体がないということがわかる。しかしヤクニンは
あくまでも「上司、上司」とそれが日本の神社の神の託宣であるかのように
いう。日本にあっては上司とは責任ある個人ではなく祠であり、ヤクニンと
は祠に使える神主のようなぐあいであるのかもしれない。

実に、おもしろい。
今でも日本の社会は(お役所に限らず)大小のヤクニンたちで溢れ返っている
ではないか。よほど日本人の深層心理や、日本社会の構造にぴったりとマッチ
した存在なのだろう。だからこそ、ヤクニンという存在は今日まで生きながら
えているに相違ない。

日本という「内々の世界で大過なく過ごす」には「ヤクニン」で生きることは
もっとも無駄なエネルギーロスがなく、効率的なのである。
自分ではいっさい責任を負わず、ことの責任は、実体すらない「上司」とか
「会議」とか「会社」におしつけておけば、個人の良心の呵責も苦しみも重圧
もなく、飄々と楽に生きていくことができる。
なんとすばらしい。

しかし、日本から一歩踏み出して外国人と交渉をすると、こんな「ヤクニン」
は、相手にとことん軽侮されるだけであることが、身に沁みてわかる。
外国人との交渉は基本的に「権限と責任を持った個人対個人」だ。
だから「これは上司にうんぬん」「自分は違うんだけれど会社が」などと
言うと、それだけの権限も責任もない交渉相手、と思われるだけなのである。

世の中、CO2排出量削減もあり、省エネが叫ばれているけれど、生きることも
そこまで「省エネ」していていいのでしょうかね。ヤクニンとして「茶坊主
あるいは「子供の使い」として生きることは楽ではあっても格好悪く、さらに
重要なことに実害だってあるのだ。
上の引用につづくくだりも引き写しておく。

太平洋戦争という、日本国の存亡を賭けた大戦でさえ、いったいたれが開戦の
ベルを押した実質的責任者なのか、よくわからない。ペリーとプチャーチン
おどろいた驚きを、東京裁判における各国の法律家も三度目におどろかざるを
えなかった。太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしく
はその「会議」というものが押したのである。
そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだが、しかしそれを押した
実質的責任者はどこにもいない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」
というきわめて抽象的な存在にすぎないのである。

世に棲む日日 (1) (文春文庫)

世に棲む日日 (1) (文春文庫)