風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

悲しき熱帯

昔の話だけれど構造主義に関心を持っていた時期があった。
今考えればこれには理由があって、当時ホログラフィやフーリエ解析のコンセプトに
興味を持っていた上に(当時ブームになりかかった)ライアル・ワトソンやフルシ
チョフ・カプラらのホーリズムにも関心が向いていた。
つまり一言で言えば『部分と全体のかかわり』に興味があったのだ。

そのくせ当時、僕は結局レヴィ=ストロースを読まなかった。
何故だろう?
今もってわからない。

最近やっとレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を読んだ。
本当にすごい本だなぁ、と思った。
松岡正剛氏が「千夜千冊」に書いている通り、この本は実に奇ッ怪かつ破天荒な本だ。
さて、この本の内容や意義については松岡氏の文章を読んでいただくとして、ここでは
僕なりの読後感を書いてみたい。

まず「1巻は面白くない。ブラジル奥地の先住民への接触やそこでの体験を綴った2巻
のほうが面白い。2巻だけを読めばいい」という声が聞かれるが、僕はそれには反対だ。
なるほどアマゾン奥地のインディオ文化人類学的記録は2巻に集中しており断然
読みやすい。1巻ではレヴィ=ストロースは実に12ページ(!)にわたって夕暮れ
の空について記述したり、延々とインド文明についての思索を書きつづったりしていて、
脈絡のない「思考と記憶のフラグメント」のゴッタ煮と言えなくもない。
しかし、この部分こそこの本を凡百の文化人類学的報告書(あるいは冒険談と言っても
いい)と異ならせている部分だと思うのだ。

1巻ではレヴィ=ストロースの思考はあちらこちらに、空間と時間を脈絡なく飛び回る。
ナチスに追われてアメリカへ大西洋を渡る船旅のこと、ブラジルの新興都市サンパウロ
の混沌と混乱、インドのカースト制度についての断片的な考察。
そして1巻の終わり近くになって、突如、このような記述が現れる。

人間が彼らの地理的・社会的・知的空間の中で窮屈に感じ始めたとき、一つの単純な
解決策が人間を誘惑する恐れがある。その解決策は人間という種の一部に人間性
認めないということに存している。何十年かのあいだは、それ以外の者たちは好き勝手
に振舞えるだろう。それからまた、新しい追放に取り掛からねばならない。
こうした展望のもとでは、ヨーロッパが20年来(私注:ナチスが台頭した1935年
〜1945年を含む)、その舞台になって来た一連の出来事 −それはヨーロッパの人口
が二倍になった過去1世紀を要約している− は私にはもはや一民族、一政策、一集団の
錯誤の結果とは思えないのである。
私はそこに、むしろ終末世界に向かう一つの進化の予兆を見る。

僕はこれを読んであっ、と思った。
だらだらと書き綴られた個々の思考のフラグメントの中には共通の「関係性の構造」
があったのだ。ナチスが台頭した1930年代のヨーロッパも、発展し続けたブラジル
の醜い町サンパウロの社会構造も、古代に成立したインドのカースト制度にも、
その本質には類縁した「関係性の構造」が隠されている!
それに気づいた瞬間、、僕はまるでステレオ写真を前に苦心惨憺してふっとある瞬間に
立体視できたようなそんな感覚を味わったのだった。

レヴィ=ストロースはこの本の中においても埋め込まれた「記号」からなる「関係性
の構造」を作り上げようとしていたのではないか?。その意味で僕は松岡氏の
レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で自分の実感をつかって試みたこととは、
このブリコラージュであり、材料と計画の対話に聞き耳をたてることであり、
それらすべてのプロセスにまつわる編集的叙述を実験してみることだったのだ」
という意見に共感する。

レヴィ=ストロースの文章はプルーストに似ている。
視覚的で執拗で暗喩・換喩に富んだ表現。
読者に五感の想像力さえあればうっとりするほど豊富なイメージを提供してくれる文体。
だからこの本はプルーストが好きな人には楽しめるはずだ。
逆に文章からイメージを想起できない読者にはうんざりするほど退屈な本だろうと思う。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)